(102)ぬれおなご

彼女と出会ったのは、雨の降る日だった。



月明かりの元、男が一人歩いていた。
右手には傘を携えている。
だが、月明かりが照らす夜空は漆のように黒く、雲一つなかった。
男は傘を携えたまま、月の明かりを頼りに道を進んでいく。
あたりに目を向ければ、人家の明かりが見える。
人里離れた小道、というわけではないが、それでも人気のない夜道を歩くのは勇気のいることだ。
特に、ここ最近は男が一人で出歩けば、拐かされるという。
だが、男の歩調に恐れはなかった。
なにもかもが気に食わない、といった様子で口をへの字に結び、黙々と道を進んでいく。
すると、道の傍らに一本の柳の木がそびえていた。
枝葉をしなやかに垂れさせ、夜風になびかせている。
そして、そんな柳の枝葉の下に、一人の女が立っていた。
薄手の着物を身につけた、長い黒髪の女だ。
だが、さらさらと風になびくであろう黒髪は彼女の着物やうなじ、頬にべたべたと張り付いている。
彼女の身体が、頭の先から足下まで濡れていたからだ。
近くに川はおろか、水たまりすらない。だというのに、女はずぶぬれのまま柳の根方に立っていた。
男は、柳の木と女の姿を認めるや、手にしていた傘を広げ、彼女に歩み寄った。
「『もし』」
男が、女に声をかける。
「『このような天気に、そうして立っていれば風邪を引いてしまいます』」
「『おかまいなく』」
女が答えた。
「『わたしはもののけ、ぬれおなご。こうして濡れているのは、この雨のせいではありません』」
「『しかしもののけいえども、雨に降られていては気分が悪いでしょう。どうぞ、こちらへ』」
男が女、ぬれおなごに向けて傘を差しだした。
「『では、お言葉に甘えさせていただきます。お優しい方』」
女はそう応えると、柳の根方から男の傘の下に入った。
「『それで、どちらまで?』」
「『どちらでも。あなたの向かうところまで』」
口をへの字に結んだままの男の問いに、ぬれおなごは応じた。
すると男は、無言のまま足を進めだした。
「『・・・何も尋ねないのですね』」
男とともに道を歩いていたぬれおなごが、ふと口を開いた。
「『尋ねる、とは?』」
「『なぜ私が、こんな雨の中、あそこにいたか』」
降り注ぐ月光を傘で受け止めながら、男は彼女に応じる。
「『興味がない、といえば嘘になります。が、あなたが傷つくようであるなら、聞きたいとは思いません』」
「『本当に優しい方』」
ぬれおなごがクスクスと笑う。
「『でも、聞いていただきます。こうして傘を貸してくださったのだから、最後まで見てもらわねば』」
ぬれおなごは、呼吸一つの間をおいて続けた。
「『私、慕っている方がいますの。ですが、その方はいつもつまらなさそうに口をへの字にして、私と目があっても表情を変えません。楽しいことがあっても、悲しいことがあっても、いつもへの字口。だからつまらないことで喧嘩して、飛び出してしまいました』」
「『なるほど』」
女の短い身の上話に、男は頷いた。
「『では、ついでで俺の話も聞いてもらいましょうか』」
「『へえ、どんな?』」
「『なに、つまらない話です』」
傘を携えたまま、男は話を紡ぐ。
「『俺は、大昔の怪我のせいで、顔の筋が強ばってしまい、こんな表情以外の顔を作れません。俺がどんなに楽しくても、どんなに悲しくても、俺の顔はいつもへの字口。だから、いつも妻とはつまらないことで喧嘩してしまいます』」
「『あらあら』」
男の話に、ぬれおなごは口元に手を当てた。
「『きっとあなたが慕っている人も、俺のように表情を変えるのが苦手なのでしょう。きっと心では、あなたにむかって笑っていると思います』」
「『でも、私からはあの人が笑っているかなんて、わかりません』」
「『では尋ねればいいのですよ、あなたはどんな気持ちですか、と』」
そこまで言葉を交わしたところで、いつしか二人は一軒の家の裏手にきていた。
「『ここまでで結構です』」
「『ここで、よろしいのですか?』」
ぬれおなごの言葉に、男が尋ねた。
「『はい、ここがあの人の家。さっそく、あなたの言葉通り、尋ねてみることにします』」
「『それはそれは。色よい返事がもらえるといいですね』」
「『ええ。ここまでありがとうございました』」
「『こちらこそ、お力になれてよかった』」
ぬれおなごと男が互いに頭を下げると、ぬれおなごは男の傘の下からでていき、勝手口から家に上がっていった。
男は、ぬれおなごの背中を見送ってから、傘を閉じて歩きだした。
月光の降り注ぐ夜道を、今し方ぬれおなごの入った家屋の周りをぐるりと進み、正面玄関に立つ。
そして、男は戸に手をかけ、開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
男の言葉に、女の声が返した。
男は、手にしていた傘を玄関脇に立てかけると、家に上がった。
行灯の薄明
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