彼女と出会ったのは、雨の降る日だった。
月明かりの元、男が一人歩いていた。
右手には傘を携えている。
だが、月明かりが照らす夜空は漆のように黒く、雲一つなかった。
男は傘を携えたまま、月の明かりを頼りに道を進んでいく。
あたりに目を向ければ、人家の明かりが見える。
人里離れた小道、というわけではないが、それでも人気のない夜道を歩くのは勇気のいることだ。
特に、ここ最近は男が一人で出歩けば、拐かされるという。
だが、男の歩調に恐れはなかった。
なにもかもが気に食わない、といった様子で口をへの字に結び、黙々と道を進んでいく。
すると、道の傍らに一本の柳の木がそびえていた。
枝葉をしなやかに垂れさせ、夜風になびかせている。
そして、そんな柳の枝葉の下に、一人の女が立っていた。
薄手の着物を身につけた、長い黒髪の女だ。
だが、さらさらと風になびくであろう黒髪は彼女の着物やうなじ、頬にべたべたと張り付いている。
彼女の身体が、頭の先から足下まで濡れていたからだ。
近くに川はおろか、水たまりすらない。だというのに、女はずぶぬれのまま柳の根方に立っていた。
男は、柳の木と女の姿を認めるや、手にしていた傘を広げ、彼女に歩み寄った。
「『もし』」
男が、女に声をかける。
「『このような天気に、そうして立っていれば風邪を引いてしまいます』」
「『おかまいなく』」
女が答えた。
「『わたしはもののけ、ぬれおなご。こうして濡れているのは、この雨のせいではありません』」
「『しかしもののけいえども、雨に降られていては気分が悪いでしょう。どうぞ、こちらへ』」
男が女、ぬれおなごに向けて傘を差しだした。
「『では、お言葉に甘えさせていただきます。お優しい方』」
女はそう応えると、柳の根方から男の傘の下に入った。
「『それで、どちらまで?』」
「『どちらでも。あなたの向かうところまで』」
口をへの字に結んだままの男の問いに、ぬれおなごは応じた。
すると男は、無言のまま足を進めだした。
「『・・・何も尋ねないのですね』」
男とともに道を歩いていたぬれおなごが、ふと口を開いた。
「『尋ねる、とは?』」
「『なぜ私が、こんな雨の中、あそこにいたか』」
降り注ぐ月光を傘で受け止めながら、男は彼女に応じる。
「『興味がない、といえば嘘になります。が、あなたが傷つくようであるなら、聞きたいとは思いません』」
「『本当に優しい方』」
ぬれおなごがクスクスと笑う。
「『でも、聞いていただきます。こうして傘を貸してくださったのだから、最後まで見てもらわねば』」
ぬれおなごは、呼吸一つの間をおいて続けた。
「『私、慕っている方がいますの。ですが、その方はいつもつまらなさそうに口をへの字にして、私と目があっても表情を変えません。楽しいことがあっても、悲しいことがあっても、いつもへの字口。だからつまらないことで喧嘩して、飛び出してしまいました』」
「『なるほど』」
女の短い身の上話に、男は頷いた。
「『では、ついでで俺の話も聞いてもらいましょうか』」
「『へえ、どんな?』」
「『なに、つまらない話です』」
傘を携えたまま、男は話を紡ぐ。
「『俺は、大昔の怪我のせいで、顔の筋が強ばってしまい、こんな表情以外の顔を作れません。俺がどんなに楽しくても、どんなに悲しくても、俺の顔はいつもへの字口。だから、いつも妻とはつまらないことで喧嘩してしまいます』」
「『あらあら』」
男の話に、ぬれおなごは口元に手を当てた。
「『きっとあなたが慕っている人も、俺のように表情を変えるのが苦手なのでしょう。きっと心では、あなたにむかって笑っていると思います』」
「『でも、私からはあの人が笑っているかなんて、わかりません』」
「『では尋ねればいいのですよ、あなたはどんな気持ちですか、と』」
そこまで言葉を交わしたところで、いつしか二人は一軒の家の裏手にきていた。
「『ここまでで結構です』」
「『ここで、よろしいのですか?』」
ぬれおなごの言葉に、男が尋ねた。
「『はい、ここがあの人の家。さっそく、あなたの言葉通り、尋ねてみることにします』」
「『それはそれは。色よい返事がもらえるといいですね』」
「『ええ。ここまでありがとうございました』」
「『こちらこそ、お力になれてよかった』」
ぬれおなごと男が互いに頭を下げると、ぬれおなごは男の傘の下からでていき、勝手口から家に上がっていった。
男は、ぬれおなごの背中を見送ってから、傘を閉じて歩きだした。
月光の降り注ぐ夜道を、今し方ぬれおなごの入った家屋の周りをぐるりと進み、正面玄関に立つ。
そして、男は戸に手をかけ、開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
男の言葉に、女の声が返した。
男は、手にしていた傘を玄関脇に立てかけると、家に上がった。
行灯の薄明
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