(91)サハギン

森の奥、人がまず足を踏み入れないほど深い場所に、川があった。
川縁には大きな岩が転がっており、その上には青いものが乗っていた。
すると、川を囲む草木ががさがさと揺れ、少年が一人姿を現した。
「おーい、遊びに来たよー」
川の水面に向かって、彼はそう声をかけた。
この川に生息する、サハギンと会うためだ。
少年がこの川とサハギンを発見したのは、ほぼ偶然だった。
村の友人たちで結成した探検隊で森に踏みいり、この川を見つけたのだ。だが少年は川に落ち、溺れているところをサハギンに助けてもらったのだった。
少年が川に落ちたおかげでこの場所は遊び場に不向きだと判断され、子供たちの興味から外れた。
しかしそれは少年にとっては幸運だった。命の恩人である、可愛らしいサハギンと二人きりになれるのだから。
まだまだ未熟な恋心とはいえ、少年を行動させるには十分だった。
そして彼は今日も、この川を訪れたのだ。
「おーい、サハー!」
少年がサハギンにつけた愛称を繰り返すが、水面は静かに流れるばかりであった。
もしかしたら出かけているのかもしれない。
これまでにも何度か彼女が留守だったことを、少年は思いだした。
「あーあ、つまんないの・・・」
少年は残念そうに、ため息を付いた。
しばらくサハギンを待ってみるか、それとも今日はあきらめて帰るか。
川の景色を見回しながら考えていると、彼は岩の上に何かが乗っているのに気が付いた。
「なんだあれ・・・?」
サハギンと並んで腰掛け、おしゃべりをするのに使っている岩の上に、なにやら青い物が乗っていた。
ぺったりと平たく、大きさは少年の胴ほどだろうか。
彼は岩の上に乗ると、その青い物を手に取った。
「なんだこれ・・・」
青く、すべすべとした手触りの、少しだけ濡れた布。それが第一印象であった。
少年から見て、上に穴が二つ、下に穴が三つ開いた構造をしていた。
「何だっけ・・・見覚え有るんだけどなあ・・・」
手に持った布を上下に持ち変えながら、少年は呟く。
いったい何だったか。記憶の底を探り、ついに彼は思いだした。
「これって、サハの・・・」
サハギンの胴を覆っていた、衣服めいたもの。
彼の手の中にあったのは、それだった。
「でも、あれって確か鱗だって聞いたけど・・・」
つまり一糸まとわぬ姿で少年と会っていると聞き、彼はしばらく悶々と夜を過ごしたことがある。
しかし、こうして彼の手の中に鱗はあった。
「・・・脱皮したのかなあ・・・」
魚が脱皮するなど聞いたことがないが、サハギンは魔物だ。もしかしたら蛇のように鱗を脱ぐのかもしれない。
「・・・・・・」
知り合いのサハギンの体の一部分だと認識すると、少年は何となくいけないことをしているような気分になってきた。
直接、サハギンの体に触れているような、後ろめたい興奮が彼の胸に湧く。
もちろん、これがサハギンの鱗だと決まったわけではないし、鱗だとしても既に体から離れているのはわかっている。
それでも、彼にとっては彼女の体と同義だった。
「・・・・・・」
記憶の中のサハギンを脳裏に浮かべながら、少年は手の中の鱗の、胸のあたりを撫でた。
薄い、すべすべとした布の感触しか感じられない。だが、少年は布の感触を通じて、サハギンの薄い胸を撫でているような気分になっていた。
もっと触れたい。もっと撫でたい。
少年の指は執拗に布地を擦っていく。
「・・・・・・」
少年の鼻息が徐々に荒くなり、腹の辺りにもやもやとした感覚が芽生える。
触れるだけでは足りない。もっと、もっとサハギンを感じたい。脳裏に、表情の変わらない魔物の少女の姿を浮かべながら、彼は布地に顔を近づけた。口を開き、震える舌を突きだして、濡れた布地をなめる。
「・・・!」
水の味しかしない。だが、それは彼女の肌を一度ぬらした水だ。
少年は彼女の体を直接舐めているような気分になりながら、手の中の布の上で舌を動かし続けた。
やがて舌が乾き、口を開けていたためか顎が痛みだした。
「はぁ、はぁ・・・」
少年は舌を布地から離すと、荒く呼吸を重ねた。
間接的かつ想像の中とはいえ、サハギンの少女の肌を舐め回したためか、彼の興奮は高まっていた。
だが、想いを満たすには至らず、むしろ彼の欲が強まるばかりだった。
だんだん、一人きりでいるのがつらく、胸に穴が開いたような切なさが沸き起こってくる。
「く・・・う・・・!」
少年はサハギンの鱗をぎゅっと両手で抱きしめると、小さくうめいた。
抱きしめたい。抱きしめられたい。サハギンの彼女と、一緒にいたい。
この場に一人でいることが、ただただ辛かった。
「サハ・・・!」
少年は思わず彼女を呼ぶが、応える者はいなかった。
ただ、そうしていれば腕の中の布が抱き返してくれると信じているかのように、じっと布を抱くばかりだった。
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