(86)イグニス

ごうごうと音を立てて、大きな建物が燃えている。
窓から炎が吹きあがり、黒煙が空に立ち上っている。
人々がバケツや桶を手に、川や井戸から水を汲んで屋敷に掛けているが、炎が弱まる様子はない。
わずかな湿り気をものともせず、炎は踊り、歌い、燃えていた。
もはやこの火は止められない。周囲の木を切り倒して延焼を防ぎ、屋敷が燃え尽きるのを待つしかない。
必死に消化をしていた人々に、あきらめが芽生えた。
だが、そこに一人の男が駆け寄ってきた。
水晶を先端に戴く杖を手にして、刺繍の入ったマントを羽織る男だった。
「み、みんな・・・離れろ・・・!」
かなりの距離を走ってきたのか、息も絶え絶えに、男が声を上げる。
「俺は、火の精霊使いだ・・・!今から・・・火を収める・・・!」
男がそういいながら、杖を掲げた。
瞬間、杖の水晶が橙色の光を放ち、直後彼の前に一人の女が現れていた。
赤い髪の、肌を多く露出した女だ。ただ、彼女はふわふわと宙に浮いており、胸元と股間、そして手首と足首に火を纏っていた。
「イグニス・・・!」
男が精霊の名を呼ぶと、宙に浮かぶ彼女は両手を屋敷に向けてかざした。
すると、屋敷の窓から吹きあがる炎が、その勢いを強めた。
熱と光が強まり、屋敷の屋根を越えんばかりに炎が増していく。
不意に火力が増したことにより、消火にあたっていた人々は、本能的な恐怖によって屋敷から離れた。
火を消すと言っていたのに、強めてどうする。
人々の戸惑いの視線が、精霊使いの男に向けられる。
だが、直後人々は炎が強まったのではないことを悟った。
「おい、あれ・・・!」
吹きあがる炎が、煙のように宙を舞い上がり、屋敷の屋根の上で渦を巻いていることに、人々が気がついた。
屋敷から煙の代わりに炎が噴き出し、空中で炎が固まっていく。
そして、空の黒煙の下に、もう一つの太陽のような炎の塊ができあがると、屋敷を舐めていた火は消えていた。
屋敷の炎を、空中に吸い上げたのだ。
屋敷の上空に浮いていた火事の炎は、不意に縮み始めた。
下手すれば屋敷よりも大きく見えた炎の球体は、徐々に小さくなっていき、屋敷の幅から高さ、部屋一つ、馬車一台、人一人ほどの大きさへと徐々に縮んでいく。
そして、握り拳ほどの大きさになったところで、両手をかざす火の精霊の下へと滑るように移動した。
「・・・・・・」
拳大の光の玉が、イグニスの胸に触れ、彼女の体内に沈んでいった。
「消えたぞ!」
「火が消えた!」
いくらかの焦げ痕をのこしてたたずむ屋敷に、人々が歓声を上げる。
ほんの少し前まで、地獄の火炎のように燃えていた火が、一欠片も残っていないのだ。
人々の歓声は、いつしか精霊使いと火の精霊への賞賛に変わっていた。
「あんた、よくやったなあ!」
「助かった!」
「ああ、はいはい。ありがとうありがとう」
興奮した人々を落ち着かせるように、男は適当に答えた。
「とりあえず、俺は火を消しただけだ。だいぶ焼けているから、屋敷には入らない方がいい。持ち主には、修理するか取り壊して新しいのをたてるかするよう言ってくれ」
そう説明するが、誰も聞いている様子はなかった。


それから、精霊使いは近隣住民たちの歓待を断りきれず、屋敷近くの酒場でお礼の宴会を開かれ、そのまま酒場の二階の宿に泊まることとなった。
「はぁ、食った食った・・・」
男は宿屋のベッドにゴロリと横たわると、心地よい満腹感を味わっていた。
屋敷が燃えるどころか、下手すれば辺り一帯を焼き尽くしていたかもしれない火事を消したということで、男は暴力的なまでの接待を受けたのだ。
「全く・・・待ち合わせまで、もうすぐだが・・・まあ、このぐらいの寄り道は大丈夫か」
腹は膨れ上がった腹を撫でながら、彼は呟いた。腹が張って苦しいが、苦痛ではない。
「イグニス・・・お前の仕事だってのに、俺ばっかりもてはやされて・・・すまんなあ」
彼と同じように、ベッドに横たわる火の精霊に、彼はそう声をかけた。
すると、火の精霊は男の方に顔を向け、気にするなとばかりに顔を左右に振った。
「そうか、お前も結構食べてたしな」
男言葉通り、イグニスの腹も少しだけ膨れていた。
身重の母親とまではないが、それでも子を宿しているように見える。
「へへ、お前もよく食ったなあ・・・まるで、俺の子が入ってるみたいだ」
「・・・・・・」
イグニスは男の言葉に、頬を少しだけ赤くすると、照れくさそうに腹を撫でた。
彼女の滑らかな肌の下に詰まっているのは、焼いた肉や野菜に飲み物ばかりだ。
だが、彼女の手つきには愛おしさが宿っていた。
「・・・俺も撫でていいか?」
じっとイグニスを見ている内、男は妙な気分になり、彼女に思わず問いかけていた。
「・・・」
イグニスがこくん、と小さく頷くと、男はベッドに身を起こした。
そし
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