大きな鏡台に向かうように、一体のセイレーンがイスに腰を下ろしていた。
鏡台には化粧道具に混ざって楽譜がおいてあり、セイレーンが袖を通しているのも、きらびやかな衣装だった。
衣装と髪型、そして顔に薄く施された化粧は、十代半ばほどの可愛らしさと美しさが同居する彼女の魅力を引き立てている。
しかし、衣装や髪型とは裏腹に、セイレーン自身の表情は沈んでおり、どこか思い詰めたような様子であった。
すると、不意に部屋の扉からノックの音が響いた。
「そろそろ時間だ」
扉が開き、男が一人顔をのぞかせる。
「準備は・・・できているようだな」
部屋に入り、扉を閉めながら、男はセイレーンの様子を確認した。
「ん・・・?大丈夫か?気分でも悪いのか?」
だが、すぐに彼女の異常に気がつき、そう問いかけた。
「大丈夫・・・です・・・」
セイレーンは男の方に顔を向けると、微笑んだ。しかしその微笑みは、どこか無理をしている様子が見て取れる、作った笑みだった。
無論男も、彼女の作り笑いを即座に見抜いた。
「大丈夫って・・・お前、辛そうだぞ。約束したよな?『イヤなことがあったり、止めたくなったらすぐ俺に言う』って」
「・・・・・・・・・」
セイレーンは表情から笑みを消すと、鏡の方を向いた。
「その・・・もう、歌いたくないんです・・・」
男の方を見ず、鏡の中の自身を見ながら、彼女が絞り出すように言う。
「コンサートも、イベントも・・・歌の内容なんてどうでもよくて、お客さんは、私が歌っているのを見に来ているだけなんだって、気がついたんです・・・」
「何で・・・」
「今日の演目見てください。ファンのアンケートで選ばれた歌をやるって言うのに、私ががんばって書いた歌が一つしか入ってないんです。誰かが書いた、歌ばっかりで・・・」
セイレーンは翼で顔を覆うと、涙声で続けた。
「誰も、私の歌を聞いてくれてない・・・もう、イヤなんです・・・」
「そうか・・・じゃあ、止めようか」
男は、何事もないかのように、そう口にした。
「ファンの求めているお前と、お前のやりたいことが違っている、っていうのは辛かったな。でも、よく今日までがんばった。偉いな」
「プロデューサー・・・」
「それに、お前は優しい。だって、お前が『自分の書いた歌しか歌いたくない』と言えば、俺はそうせざるを得ないのに、ファンのことを考えてそうしなかったんだからな」
男の言葉が、セイレーンの胸に突き刺さる。自分のものでない歌を歌うのがイヤで、ただ逃げたいだけだというのに、優しいだなんて。
「お前が活動方針を変えたいと言えば、俺はそうする。お前が今日のコンサートは止めたい、と言えば、俺はそうしてやる。そういう約束だったな」
男はセイレーンの側に歩み寄ると、衣装が崩れぬよう注意しながら肩に手を触れた。
「よく、今まで頑張ったな」
頑張ったな。今まで幾度もかけられてきた言葉だったが、今かけられた一言は、セイレーンの胸に熱く染み込んでいった。
「プ、プロデューサー・・・」
セイレーンの言葉が震え、視界がにじむ。
鏡越しに彼の顔を見ようとしているのに、見ることができない。
「おいおい、泣くなよ・・・明日から休みにして、しばらく羽を伸ばそうって相談をしようってのに・・・」
「違うの・・・もう止めていい、っていわれたら・・・きゅうに、涙が・・・」
「別にアイドルを止めるってわけじゃないんだ。そう悲しまなくてもいい」
「でも・・・」
男の言うことは、セイレーンも頭でわかっていた。だが、涙はなぜか止まらないのだ。
「ああ、そうか、そういうことか」
困った様子の男が、何か思いついたように手を打った
「やっぱり、お前は優しいな。だって、これまでつきあってきた『ファンが見ているお前』とお別れになるって、泣いているんだからな」
「・・・・・・え?」
男の言葉は、セイレーンにとって意外なものだった。
「考えてみればそうだ。デビューから三年、生まれた赤ん坊が立派に立って走って口を利くぐらいの間、お前と『ファンが見ているお前』は一緒だったんだからな」
「・・・・・・」
言われてみればそうだ。ファンはセイレーン自身ではなく、アイドルを演じている彼女を見ていた。
止めていい、と男に言われるつい先ほどまで、『彼女』と彼女自身は影のように切っても切り離せないものだと思っていた。
だが、今彼女は『彼女』から自由になれる。その事実と男の言葉に、セイレーンは自分がいつの間にか『彼女』に対し、名残惜しさのようなものを感じているのを悟った。
「だったら、こうしよう。今日のコンサートは、お別れコンサートだ」「お別れコンサート・・・?」
「そうだ。お前と、『ファンが見ているお前』がお別れするためのな」
セイレーンが男の方を見上げると、彼は続けた。
「今日のコンサートで、これまでの
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