(71)アヌビス

花束を手にしたアヌビスが、一人遺跡の一角にもうけられた部屋に入ってきた。
「うーーい、ただいま帰りました、ヨー」
褐色の頬を少しだけ赤く染め、足下をふらつかせながら、彼女はよろよろと部屋の奥に向かった。
「お土産がありますよー、花束ですよー」
おぼつかない手つきで、花束を包む紙をはがすと、彼女は棚に並べられていた飾りものの壷に花をつっこみ、水差しの水をそそぎ込んだ。
花を生けるわけでもなく、ただ飾っただけだ。
「うーん、やっぱり違うわねえ。こう、新郎新婦の幸せ感がにじみ出てるわぁ」
花を一秒ほど眺めてから、彼女はそう頷いた。
先ほどまで開かれていた、部下のスフィンクスの結婚式に彼女は招待されたのだ。
遺跡守護に必要なレベルの問いかけができなくなったのと併せて、寿退職を報告したスフィンクスの姿は、幸せそうだった。
そして、このあたりに古くから伝わる花嫁衣装を纏い、人間の男と並ぶ彼女は輝いていた。
「ねー、仕事も不真面目だったあのスフィンクスが、結婚するなんてねー」
スフィンクスが放り投げ、運良くキャッチして手に入れたブーケに、アヌビスは語りかけた。
「おかしいわよね?ウンソウオモウヨ」
アヌビスが裏声で、自らの問いかけに続けた。
「でも、仕事一辺倒の私は、このまま一人で朽ちていくのかしら?ソンナコトナイヨ」
ブーケを見つめ、極力唇を動かさないようにして言葉を紡ぐ。そうするとアヌビスには、まるで花たちがしゃべっているように見えた。
「シゴトガバッチリデキル ステキスタイルノアニーチャンナラ キットイイヒトトケッコンデキルヨ!うふふ・・・ありがと・・・」
自らを励ます言葉に、彼女は微笑む。
「じゃあ、私もう少し、頑張ってみるわ・・・ガンバッテ アニーチャ」
「帰っていたのか」
「ただいま」
不意に部屋の入り口から入ってきた男の声に、アヌビスは裏声を断ち切った。
「ん?一人か?」
遺跡の番人として、夜間の見回りをするアヌビスの同僚にして同居人の男が、そう問いかけた。
「ええ」
彼女が応えながら、花から目を離して振り返ると、部屋のドアの隙間から顔だけをのぞかせる男の姿が目に入った。ドアを開ける音がしなかったということは、彼女が閉め忘れていたのだろう。
「甲高い声が聞こえて、妖精か何かが来ているのかと・・・」
「私よ。腹話術の練習してたの。今日の結婚式でふつうにスピーチしたら、花嫁に面白くないって言われて・・・」
「そうか。侵入者じゃなくてよかった」
男の頷きに、アヌビスは胸をそっと撫で下ろした。
男の前では、まじめな遺跡管理人として振る舞っているのだ。自分の裏声での励ましを聞かれたかと思って、酔いも醒めてしまった。
「晩飯は?」
「いらないわ」
先ほどの結婚式で、ごちそうを平らげてきた。小腹はすいていたが、あまり食べるとよくない。
「そうか。とりあえず、風呂の湯は沸かしてあるから、ゆっくり入ってくるといい」
「ありがとう」
近場のオアシスから水をくみ、火を焚いて温めておいてくれた男の労力に、彼女は素直に感謝した。
仕事の上でもそうだが、こうした生活を送る上での気配りがありがたい。
アヌビスは花の前から離れ、若干ふらつく足取りで、下着などを納めている箱の前に歩み寄った。
「ああ、それと」
ドアの隙間から顔を引っ込め、ほぼドアを閉じかけたところで男がふと思い出したように口を開く。
「キットキミナラ ケッコンデキルヨ アニーチャン」
「・・・」
裏声ではあるものの、アヌビスのそれほどは高くない男の言葉に、彼女は一瞬動きを止めた。
どうしよう。
怒るか、聞かなかったことにするか、言い訳するか。彼女の酔いが醒めたとはいえ、まだまだ酒の残っている頭の中で思考が渦を巻く。
そして、彼女の意識は一つの結論に達した。
「うーん・・・」
それは、うめき声を漏らしながら、意識を手放して失神することだった。



目を開けると、見慣れた天井がそこにあった。
「お、起きたか」
男が司会の縁から顔をのぞかせ、口を開く。
「ええと・・・」
「急に起きあがるな。突然倒れて驚いたぞ」
上半身を起こそうとする彼女を押しとどめながら、男は続けた。
「気分は悪くないか?痛いところは?」
「うん・・・大丈夫・・・」
背中に触れる布と柔らかなクッションの感触に、彼女は自身がベッドに横たわっていることを悟った。
「水、飲むか?」
「頂戴・・・」
彼女の言葉に、男は横になったままでも水が飲めるよう、飲み口の付いた器を彼女の唇に近づけた。
「ん・・・」
きゅっと伸びた飲み口に唇を当てると、男が器を傾けて水を飲ませる。
ゆっくりゆっくり、口内を潤していく水は美味だった。
「ん・・・もういいわ・・・」
少しだけ顎を引くと、男は器を戻して引っ込めた。
「その・・・どのぐらい眠っ
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