(65)ナイトメア

走る、走る、走る。
ぬるぬるとぬめりを帯び、足に絡みつく膝ほどの深さの粘液の沼を、男は必死に走っていた。
男の向かう先は闇だ。しかし、このままとどまったり、背後を振り向くよりかは遙かにましだ。
ああ、追いかけてくる、追いかけてくる。お面をつけた小さい男が、足も動かさずに男を追いかけてくる。
振り向かずとも、男には追跡者の姿が手に取るように分かった。
そして、追跡者が自分に何をしようとしているかも、追跡者自身のように男には分かった。
スプーンだ。スプーンを使うんだ。
男は銀色の食器が描く曲線を脳裏に思い浮かべ、その材質の冷たさを背筋に感じながら、懸命に前に進んだ。
しかし、もう追跡者は彼のすぐ後ろに迫っている。もう手を伸ばせば、背中に触れられる距離だ。
だが、追跡者は手を伸ばす気配はない。それもそのはず、スプーンを使うにはまだ距離がある。
「はぁはぁはぁ・・・!」
妙にもたつく両足を叱咤しながら、男は前へ前へと進んだ。
そして、追跡者が手を掲げ、彼の背中に向けてスプーンの柄をそっと近づけていく。
冷たい小さな凶器が彼の背筋にふれる瞬間、彼の手を何かが掴んだ。
不意の感触に、男の口から悲鳴が迸った。



「ああああああああああっ!ああああっ!あぁっ!」
悲鳴と呼吸を繰り返しながら、男は自分が寝室にいることに気がついた。
粘つく闇の沼ではないし、男の背中に触れていたのもベッドのシーツでスプーンの柄の影すらなかった。
「はぁはぁはぁ・・・」
本当に走って逃げていたかのように高鳴る心臓の鼓動をなだめ、呼吸を落ち着かせていく。
そして男は、つい先ほどまで自分が見ていた夢の何が恐ろしかったのか、頭の片隅で疑問を抱き始めた。
闇の沼を走るのは怖い。なおかつ追跡者がいるのはもっと怖い。しかし、その追跡者がスプーンを使うお面をつけた小男だとして、何が恐ろしいのだろう?そもそも、夢の中の男自身は知っていたようだが、スプーンをどう扱うのか?
恐怖感が薄れ、妙な笑いが浮かんでくる。
しかし、男には先ほどまでの悪夢を笑い飛ばして、ベッドに横になる気力はなかった。
このところ、横になれば必ず悪夢を見ているからだ。それも、後で考えてみれば、何が恐ろしかったのか分からない、でたらめな恐怖感だけが脳裏を満たす悪夢だ。
もう、彼は眠ることが恐ろしかった。
「はぁ・・・はぁ・・・く・・・」
ようやく落ち着いてきた呼吸の合間に、男はうめき声を挟んだ。
夜明けまで、まだもう少しかかる。眠らぬよう気をつけながら、体を休めないと。
「そしたら、病院だ・・・」
聞くところによると、最近男が住む町に、眠りに関する一切を請け負う医者がやってきたらしい。その医者なら、この悪夢をどうにかできるかもしれない。
体が健康だというのに医者に行くことへの抵抗感は、もはや男の内側から消えていた。
「とりあえず・・・便所だ・・・」
男はそう声に出して呟くと、ベッドから起きあがり、寝室を出ていった。
そして、主のいなくなった寝室に、窓の外から何かが動く物音が響いた。




清潔感のある小さな部屋に、一体の魔物と一人の人間の女性がいた。
イスに腰を下ろした女性の向かい、机のそばに座っているのは、一体のナイトメアだった。
腰から下、馬めいた形の下半身を床に寝そべらせ、イスに座る女性と目の高さをそろえていた。
「どうやら、食事制限による空腹感と、それに伴う不安感が、安眠を妨げているようですね」
ナイトメアがよく身に纏うローブではなく、白衣に袖を通し、藍色のロングヘアの下に眼鏡をかけた彼女は、女性に穏やかな口調で話しかけた。
「医者としては、ダイエットを中断して、食事制限を解除することをおすすめしますが・・・どうしても、というのなら寝る前に温めたミルクを飲んではどうでしょうか?ミルク一杯ぐらいなら、ダイエットの妨げにはならないでしょう?」
「そう、ですね・・・じゃあ、今晩からそうしてみます」
「しばらく試してみても、変わらず眠れないようなら、また来てください」
「はい、先生。今日はありがとうございました」
女性はイスから立つと、ナイトメアに向けて頭を下げて、部屋を出ていった。
「・・・・・・はぁ・・・」
ナイトメアは一つ嘆息すると、壁に掛けられた時計を見上げた。
もうすぐ昼だ。
「せんせぇ〜」
診察室の壁に設けられた小さな窓が開き、看護婦のワーシープがひょっこりと顔を覗かせた。
「新規の患者さんが来てます〜」
そう言いながら、彼女は窓からカルテを差し出した。ナイトメアはそれを受け取ると、ざっと目を通そうとし、カルテに書かれた名前に目が釘付けになった。
「っ!と、通して・・・」
「はい〜」
ナイトメアの声に宿った緊張に気がついた様子もなく、ワーシープは顔を引っ込め、窓を閉めた。
「・・・来た・・・!」

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