(50)バフォメット

畳の敷かれた一室に、俺とバフォ様はいた。
窓の向こうには夜空が広がっており、月と星が輝いている。
「ではバフォ様、お疲れさまでした」
「うむ、お疲れさまなのじゃ」
背の低いテーブルに向かい合わせになり、俺とバフォ様はビールの注がれたガラスコップを掲げて軽く打ち合わせた。小気味いい高い音が鳴り響く。
「ん、ん、ん・・・ぷはぁ!」
バフォ様はコップのビールを半分ほど飲み干すと、一息ついた。
「いい飲みっぷりで、さすがバフォ様」
「ふふふ、そう誉めるでない・・・けぷ」
早速酒が回ってきたのか、頬を軽く赤らめながら彼女は小さくげっぷした。
「むしろ、お前のほうがもう少し潔くのまんと・・・ほら、ワシの旦那様なんじゃから」
「それでは」
彼女の言葉に、俺は一口二口程度にとどめていたビールを、ごくりと喉へ流し込んだ。ほろ苦い、清涼感のある冷たい液体が喉を滑り落ちていく感覚が楽しい。
「・・・ぷはあ」
「うむ、いい飲みっぷりじゃ!」
満足したらしく、バフォ様は小さく頷いた。
「それでは、料理が冷めるといけませんし、いただきましょうか」
「そうじゃな」
俺とバフォ様は箸を手に取り、テーブルに並ぶ料理に手を着けた。


バフォ様と新婚旅行で、ジパングを訪れている。
それも魔法で飛んだり転移したりせず、陸路と船を使ってわざわざジパングまで向かったのだ。
一月がかりの新婚旅行に、バフォ様は最初のうちは難色を示した。だが、魔法で移動して、その土地の料理を食べて一泊して、ただ帰ってくるだけの旅行でどれだけの思い出が作れるのか、という俺の説得によってバフォ様は納得した。
新婚旅行とは、二人の幸せな思い出を築くための作業なのだ。パッと行ってパッと帰ってくるだけでは、そう多くの思い出は作れない。
そう言うわけで、俺とバフォ様は大いに働き、一月分の休暇を作ることに成功したのだ。そして、なるべく移動魔法を使わない、というルールで旅を続け、ついにジパングの有名な温泉旅館を訪れたのだった。
異国情緒漂う温泉旅館に、バフォ様は大いに喜び、広々とした浴場をたっぷりと堪能したのだった。
そして今、俺たちは二人そろって浴衣に袖を通し、旅館の料理に舌鼓を打っているのだ。
「ほれ、口を開け」
向かい合わせは寂しい、ということで俺の隣に移動したバフォ様が、箸で刺身を摘んだまま、俺にそう言う。
「あーん」
俺は彼女の命令に、口を開いた。彼女はこの旅館までの旅の間に鍛え上げた箸使いで、震え一つなく俺の口に刺身を入れた。
醤油の塩味が一瞬口中に広がるが、遅れて淡泊ながらもうま味をはらんだ魚肉の味と、コリコリとした歯ごたえが広がる。
「どうだ?」
「おいしいですよ、バフォ様。さっき俺が一人で食べたときよりも」
「ふふふ、さすがにお世辞がすぎるぞ?」
バフォ様はそう言うが、お世辞ではない。さっき俺が食べたときは、醤油をつける量の加減がわからず、ざぶざぶと漬け込んでしまったのだ。おかげでほとんど醤油の味しかしなかった。
「だったら試してください」
俺は手を伸ばし、皿に盛られた刺身の一切れを箸で摘むと、端から半ばまでを軽く醤油に浸した。
「はい、バフォ様あーん」
「あーん」
バフォ様が小さな口を開き、桃色の舌を晒す。俺は彼女の真珠のような歯並びの間に、そっと刺身を置いた。
「んむ、んむ、ん、ん・・・」
彼女は唇を閉ざすと、しばしもぐもぐと口を動かし、刺身を味わった。
「うむ、不思議じゃ・・・うまい」
「でしょう?」
彼女の心底不思議そうな感想に、俺はそう続いた。無理もない。俺が彼女の口に入れた刺身は、先ほどバフォ様が醤油をほとんどつけずに食べた刺身と同じ種類だ。
「しかし、やはり来てよかったなあ」
天ぷらを取り、一口かじりながらバフォ様が漏らす。
「先週ぐらいまで、『やっぱり魔法で移動しようよ』とか誰かさんは言ってましたけどね」
船の上や乗り物の中で、ある時は不機嫌に、ある時は疲れ果てながらバフォ様がつぶやいた言葉を、俺は繰り返した。
「あの時はあの時じゃ。むしろ、あの時の苦労があるから、今の心地よさがあると思えば、あの辛さも必要だったのだろうな」
彼女は天ぷらの残りを口に入れ、もぐもぐとしばし噛み、飲み込んでから続けた。
「ありがとうな」
「なんですか、急に」
「なに、こうしてお前が連れ出してくれなんだら、ワシはこの心地よさを知らずに、一生過ごし続けたのだろうな、と思ってな・・・」
バフォ様はコップを手に取ると、残っているビールを少し飲んだ。
「魔法で一瞬で移動して、一瞬で戻ってくる。そっちの方が確かに楽じゃが、お前の言っていたとおり、こうしてしっかりくつろぐことは出来んかったなあ」
これまでバフォ様が経験してきた旅行を思い返しているのか、彼女はしみじみとつぶやいた。
「今度はサバトの魔女たち
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