森の中、消えかけの獣道を進んでいると、不意に腕が何かに引っ張られた。
目を向けると、きらきらと木漏れ日に光る糸のようなものが腕に絡み付いていた。どうやら蜘蛛が巣を張っていたらしい。
意図せず巣を崩したことを、巣の主に詫びながら糸を払いのけようとした。だが、糸はちぎれるどころか、更に腕に絡み付いてきた。
自由な腕を伸ばし、絡み付く糸を取ろうとする。しかしその腕も、中途半端に掲げたところで何かに引っかかった。
何かがおかしい。
俺は、とりあえずまだ動かせる両腕をそのままに、数歩退いてその場から離れようとした。
両腕に絡み付く糸は、俺の後退にゆっくりとのばされていく。しかし糸がちぎれるより前に、俺の背中を何かが抱き止めた。
目を向けると、肩口から数本のきらきら光る糸が、周囲の木々へと伸びていた。
「くそ・・・!」
今度は前に進み、背中に絡み付く糸を剥がそうとする。
しかし踏み出した足のすねに何かが触れ、足が前に進まなくなる。
もう片方の足で地面を蹴り、横に倒れようとする。
どうにかバランスを崩し体が傾くが、獣道の左右に生える草につっこむ遙か手前で、転倒が止まった。
獣道の真ん中で、俺は見えないほど細い糸によって宙吊りにされていた。
「くそ、くそ・・・!」
俺の脳裏に、巨大な蜘蛛の姿が浮かび上がり、恐怖が沸き起こる。
だが、俺は悪態を付きながら、恐怖が全身を支配しないうちに脱出しようと試みた。
糸の絡み付く上着の袖から腕を抜き、そっと上着を脱ぎ捨てる。ズボンのベルトをゆるめ、両足を引き抜いてきらきらと木漏れ日を照り返す糸の間に足をおく。
俺は下着姿になりながらも、衣服だけを糸の間に残すと、慎重に進んだ。
木漏れ日を反射させながら輝く糸の間を、触れぬように身をくねらせ、屈め、ゆっくりとまたぐ。
そして、木々から延びる糸を抜けたところで、俺は胸をなで下ろした。
脱出できたのだ。
「早いところ逃げないと」
衣服や荷物の一部は惜しいが、もうすぐこの糸の主が来るだろう。荷物に気を取られて留まっていたら、せっかく脱出した意味がなくなる。俺は宙吊りになった上着とズボンに背を向け、獣道を足早に進もうとした。
しかし、十歩も進まないうち、俺の顔に何かがへばりつく感触がし、それきり体が動かなくなる。
「え?あれ・・・?」
不自由ながらもどうにか動く手足を揺らすと、周囲の木々の枝が揺れ、木漏れ日が日陰になっている部分に差し込んだ。
すると、枝から俺の方に向けて延びる極細の糸が、日陰の中できらきらと光った。
糸の罠は二つあったのだ。
「あら、結構大きいのがかかってたわね」
獣道の横から、草をかき分ける音と共に声が響いた。
首を少しだけねじり、目をどうにかそちらに向けると、女の顔が見えた。
一瞬俺の胸に、助けが来たという安堵感とここに近づくことへの危機感が生まれる。だが、彼女の姿が視界に入ったところで、俺の意識は凍り付いた。
彼女の腰から下は、巨大な蜘蛛の姿をしていたからだ。
「ああ・・・」
「怖がっているわね」
糸の主を悟り、思わず声を漏らす俺の目の前に、アラクネが立った。
整った顔立ちに、ふくよかな胸元、そして引き締まった腰周りが美しいだけに、その下に続く巨大な蜘蛛の体が恐ろしかった。
「大丈夫よ。大人しくしていてくれたら、すぐに終わるから・・・」
肘までを覆う短い体毛に包まれた腕で、彼女は俺の頬を撫でた。
頬をくすぐる、犬や猫などの動物とは異なる感触の毛に、俺の固まっていた意識が動き出した。
「い、いやだ・・・」
「大丈夫よ、痛くないわ・・・気持ちいいぐらいよ」
彼女は俺をなだめるように、そう言った。
聞くところによるとある種の虫は、ほかの虫に毒を注入して痺れさせて食べるという。そして、その毒は苦しいものではなく、体の感覚を奪い、痛みも感じなくさせるものだそうだ。
きっとこのアラクネも、そんな毒を持っているに違いない。そしてその毒を俺に注入し、痛みを感じないうちに・・・
「う、うわぁぁぁ!」
不自由ながらもどうにか全身を揺り動かし、俺は声を上げて彼女から離れようとした。
「あらあら」
振り回される手足にぶつからぬよう、アラクネが数歩退く。
「大人しくしてくれたら、こっちも優しくしてあげようとしたのに・・・」
残念、といった様子で彼女はつぶやくと、地面を踏みしめる蜘蛛足をのばした。すると彼女の体の下に、大人一人が楽にかがんで入れそうな空間ができた。
直後、大きく膨れた蜘蛛の腹が、ぐいと曲げられて足の間の空間に入り込み、とがった先端を俺に向けた。すぼまった先端が開き、白井ものが見えた瞬間、その白が俺に向けて噴出した。
「うわ・・・!?」
蜘蛛の糸に拘束された俺の胸に、白い物が蜘蛛腹との間に糸を張りながらぶつかる。ねっとりとしたそれは、俺の胸にへばりついた。
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