魔法生物の生息範囲内だけあって治安も良いとは決して言えず、人里からも遠く離れているこの辺境の玄関を叩くものが現れたのは、日も暮れてから大いに時間を置き、わたしがひと風呂浴びてから水魔の研究をしている時であった。
「すいません」
夜の来訪者とは相当珍しい。
その珍しいという内の大半は有翼の魔物であるのだが、戸の向こう側で立つものは男の声でわたしに呼びかけている。これには一体何がどうしたのだとより一層に驚く外無い。とりあえず水魔を木箱の中に押し遣ってから炊口に隠し、それから扉の前に立って、しかし開けずに声に向かって問う。
「一つ。人間で間違いないか」
「人間です。夜分遅くにすいません」
声からして男という事は、つまるところ訪問者が人間である事を示している。
そうと判っていても、億に一つ魔物が男の声色を使っていないとも限らない。そもそも男に化ける魔物の存在も剰り耳にしないのだが、いつ何時現れたとしても魔物の性質上から十分得心が行くものだろう。その為に充分用心しつつ扉を開け、目前に立つものを確認すると果たして、眼鏡を掛けた男、確かに人間である様だった。
何故こんな時間にとも思ったが、それこそこんな時間に見知らぬ男が態々わたしに用あって訪ねて来たとは思い難く、少なくともそれなりの距離を歩く人間である事は抱え背負う装備からも判り得た。
「こんな辺鄙な場所までようこそ。
こう暗くなると蛇が湧いて危険ですし、どうぞお入りください」
「是非ともお言葉に甘えさせていただきます。
ああ、いや、寧ろその為に訪ねさせていただいたのですが」
わたしは疲れの混じる朗らかな笑いが背負う大きなバックパックが屋内に進んでいくのを見つつ戸を閉めて鍵を掛け、戸口に棒石灰で結界を張りなおしてからリビングに戻る。
リビング中央で落ち着ける場所が無く立ち往生している男と目が合い、少々待つように指示をする。男の為に椅子の背に掛かった季節外れの防水合羽を壁に下ろし、テーブルに雑座した多種多様の食糧や器具、雑貨類を棚に移して普段より余計にひとり分の席を開ける。即席に疲れているだろう男を座らせてからは淹れてそれほど時間の経っていないコーヒーをコースター付で差し出した。
「あ、砂糖もミルクも結構です」
即座に言ってくるあたり、なかなかこの男は図太い性格をしているらしい。とりあえずコーヒーで眼鏡を曇らせ一息ついた時点を待ち、わたしは彼の話を聞く事にした。
「さて、早速ですが国境警備員として伺いたい。
あなたは一体如何様な理由を持って国境まで参られましたか」
この家には大きな表札が掲げられているのだが、それが示している内容は家主が国境警備の仕事に就いている人間であるという事であった。この仕事は極力関わる事を避けられる職業である。国境警備員とは現在では形骸化してこそいるものの、本来的には魔物から国民を守る以上に国民の不法入出国を取り締まる立場にある為である。したがってこの表札は人避けとなるケースが多く、我が家を訪れるという事は、例え夜だとしても否応無く表札を目にして居る筈だった。
この男は十中八九国境を越えにやって来ているのだ。一応とは言え理由を訊かぬ訳にはいかなかった。
「ああ、これは失敬仕りました。いや私はフリツヴェラと申します。
中央でとある研究職に就いておりまして、縁有って山に登る事になりました」
中央。
この国の繁栄を極めた都のひとつとして数えられ、その周囲を高く分厚い何十もの城壁で覆っている要塞都市であり、世界有数の先進都市である。わたしの住む田舎とは比べるべくも無い見聞きすらせぬ技術の粋が集まっており魔法魔術とは似て非なる論理によって発展しているらしい。何でも蛇口を捻るとカラクリ仕掛けで浄化された水が流れ、牛馬を使わず水と油によって走る車があるという。半ば単純な過程を態々複雑化させた変態的な方面も多いと聞いている。
そんな都市の研究職、つまるところ学者であるというのだから如何程の権威持ちであるのか想像が及ばない。
「山と言いましても、此処では国境を越えた先の山脈しかありませんが」
「ええ、その丁度川向かいの山脈です」
「成程。相当突飛な調査とお見受けしました」
お気の毒に。
わたしは恐らく身分が自身より上位に居るであろう学者に対して畏敬以上に心中憐憫を持って呟いた。先日来訪してきた有翼の魔物から、山中において魔物たちですらもなかなか面倒だと思うような場所に厄介極まりない新参の精霊が現れたと聞いていた。山中が普段以上に緊張状態にあるといってもいい現状で男単身特攻するなど、正気の沙汰とは思えなかった。
まあ、恐らくその類に関する調査のための態々ご足労、という事なのだろうが。
「それならば越境許可証は」
「え
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