越境

 最初は甘いにおいだった。

「ちょっと、ねえ、大丈夫ですか」
「へんじがない。ただのしかばねのようだ」
「縁起でもない事言わないで下さいよ。ねえってば、襲っちゃいますよ」

 次に、気の軽くなる様な、聞いただけで元気になるような声がした。
 快活で悪戯染みた感のある少女達のそれは、人付き合いの薄いわたしが聞き覚えのあるものであり、わたしは薄ら瞼を開いた。

「あ、起きた」

 わたしの変化にいち早く少女達は気付いたらしい。
 久しく外光を取り入れた瞳孔は暈けた視界のみを展開させ、虹彩と眼球裏に潜む神経に疼痛を生んだ。しかしてわたしを起こしたものが誰なのかを確認せねばなるまいと眼窩の震えを抑えつつ凝らして見遣るや、何やら上下の反転した有翼の魔物と小さな蛞蝓の2体がわたしを覗き込んでいるらしい。暫く黙って資格の回復を待つと、有翼の魔物の目にはわたしの眠たい顔が反射されていると判った。そして彼女の肩に佇む大蛞蝓の奥に映る背景は、他ならぬわたしの家の天井だと言う事も理解した。
 声を出そうとしたが喉が上手く機能しないらしく、息しか出来ない。未だ夢心地にあるらしいわたしの神経に喝が入れられたのは、有翼の魔物の羽が頬に触れてからの事と相成った。

「おま、へ、ら」

 一言喋らずとも猛烈に顎が痛かった。強すぎる歯軋りをどれだけしたのか。
 それだけに飽き足らず、生まれて初めて舌が重いと感じ、歯茎が歯を圧迫している。
 わたしの身体に何が起きた。どんな悪夢を見ていたと言うのだろうか。

「おはようございます」
「おまえらーだと。とんだご挨拶頂いちゃったよ。失礼しちゃう」

 耳の中に水が詰まっているらしく、少女達の声はくぐもった音になって頭に響く。
 何が何やらとわたしは辺りを見回すが、生憎頭迄もが兜を被ったかと錯覚する程矢鱈に重く、梃子でも動いてくれようとしない。

「よかった。目が醒めてほっとしましたよ」
「あと少しで襲う心算だったらしーぞ」
「そりゃ危なかった」
「今夕方だぞ。何日間こんな床に寝転がっていたのさ」
「それより先ず、これは一体どういう経緯で」

 わたしは状況の確認をしようとした。
 今寝ていたのは我があばら家のリビングだ。様々な魔術が重ねられている以外は何の変哲も無い板張りの床で、丸太作りの梁が頭上を通っている。かような場所で一晩でも寝たものなら体の節々が痛くなるものだが、どうやら今回はその例に漏れたらしい。しかしながら起き上がるべく腕を床から立てようとするもその力が入らない。体が上手く扱えない焦燥感に苛立ちを覚え投遣りになると、首の後ろから暖かさが込み上がってきた。有翼の魔物の柔らかでそれ以上に強い張りのある腿肉が、わたしの頭にその生命熱を優しい脈動に合わせて伝えていたのだ。甘いにおいの正体についても、どうやら有翼の魔物から発せられているものだったらしい。

「何だこれ」
「気に障られましたか。失礼しました」
「手ぇ冷え切ってたんだぞー。どうやって暖めてたと思う」

 大蛞蝓がからから笑ってわたしに問いかけ、有翼の魔物が少しばかりはにかんだ。眼球だけを動かして左手を見ると、少しばかり濡れているらしい。わたしは何があったかを深く考えずにその問いかけを無視する事にし、執りあえず有翼の魔物の介助をもって初めて天井から壁に視界を移した。有翼の魔物の熱から離れると、聊かながら部屋の冷え込んだ空気に身震いする。

「こげな埃くさい床に張り付くなんて、ばかじゃん」
「何があってそんな眠りこけてたんですか」

 掌大の大蛞蝓はわたしを茶化したが、有翼の魔物は至って真剣な面持ちでわたしを見つめて来る。恰も睨みつけられているのではと錯覚する程の鋭い眼光はしかし一介の警備員である自身を心配しているという心情から沸いて浮かび上がった表情であるのだと思うと、複雑な感を覚える他無い。
 半ば呆気に取られつつ未だ何を訊けばいいのか具体的に整理仕切れないでいると大蛞蝓と目が合い、それを皮切りに大蛞蝓は表相に浮かぶ笑顔を削ぎ落としながら喋り始める。

「まあお陰様であたしも結構楽々川渡り出来たんだけどさ。
 でも数年続いてた結界警備ってのが急に終わりってのは結構不可解じゃん。
 こりゃ何かあんなって様子見に態々こっち来ても返事無いし夜も無点灯だし。
 てあんたの気配はちゃんと家から漂ってくるんだから余計心配になって家張ってさ」
「おお、おう」
「もー3日間も放置プレイされちゃうし、こんな健気な少女にひどいと思わないかねえ」

 何処の誰が少女だって、とわたしは心の中だけで呟いた。しかしそう思う反面、手乗り大の蛞蝓がひとり捲し立てて普段以上に語りだしたのは、恐らくずっと対話をしていなかった為、またそれ以上に安否に不安を感じていた為の反動だろうと気付く
[3]次へ
ページ移動[1 2 3 4 5 6]
[7]TOP [9]目次
[0]投票 [*]感想[#]メール登録
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33