休息

 水魔を我が家に招き入れてからそれなりの日数が経過したため、わたしも大体の生活リズムを取り戻して安定した毎日を過ごす事が出来るようになってきている。元々結界警備の職務で一日の殆どを費やしていたものだが、人間のやる気とは存外恐ろしいものらしく、今や日課と研究の併合した日々の暮らしを可能としている心算だ。かといって研究に余念の無い日々を送って居る事も事実である。わたし自身が言うのも何だが、鋭気を養う時間を採択する必要が出てきたという程度には疲労感を感じている、という事だった。無理なく日々を過ごしている訳でもないのでどんな曲解を経ようが疲れたという言葉に尽きるのだが、どの道日課から解放される事は先ず無いし、家に居れば否応無く住み着いたスライムの観察に気を削いでしまう。
 今朝の起床後にも昼食時にも木箱内で眠り耽る水魔と顔を合わさなかった事で思いついたのが、わたしは唐突にこの難問から脱却する策と呼べるものに偶然巡り逢った。それこそが、水魔からあえて目を離すという事である。
 観察研究に当たってこの異様を仕出かすのは阿呆極まり無い事だが、まあ大まかな経過観察という体を持って間隔を置いたレポートを取ることにも、有意性はそこはかとなく存在する。ひとりで研究しているものである事から、わたし自身のみが納得していればそれで問題は無い。研究をせず開いた時間を利用した気晴らしをしようではないか。

「こん間に緊急警備の報せ届いとったらどうすんさなあ、おい」

 その気晴らしというものも、人と会ってはかような言葉で逆効果になる場合がある。
 わたしは午後の警備を一時中断して下流域の街に赴き、古い外観に比べて内装は新しく、しかし既に蜘蛛の巣が天井付近に張っている配送局に来ていた。医局以外では周辺地域唯一の社交場であるため、空きスペースを利用した外に迄及ぶビアホールが設置された活気付く場所である。そこは田舎ゆえの雰囲気なのか、仕事合間に抜け出した老若男女がアルコール片手にのんべんだらりと談笑して和気藹々の文字が空気から浮いて見える勢いだった。その都会には無いであろう種類のがやつきに溢れたカウンターを前にして、ひげを蓄えた大柄な店主が眉間を上げ調子にわたしを見つつ、幾らかの包みを手渡して言う。

「肝心要の警備員様よ」

 中に香草が浮いている辛味の強いビールを呷り、癖が強く固めのチーズを口に放り込み奥歯で噛み潰す。喉の奥が冷やされた後に熱を持ち、口は刺激に包まれてから濃厚な乳製品に唾液を集中させる。舌の横から全体に広がる味は久方ぶりの好味との再会であった。

「そんな初中後緊急通知来る様じゃ、疾うに此処等辺は侵攻済みだろうよ」
「いや、大事無えなら構わん。
 碌に街にも出られやせん不憫職っちゃ不憫職なワケだし」
「言ってくれるなよ。急に仕事がきつく感じる」
「そりゃ悪かしなあ。こいサービスじゃ、許せ」
「おお、仕方無いから許そう」

 苦く細い添え物の緑を前歯で微塵切りにして、再びビールで口を洗う。それから、新たに出された薄切りの塩漬け肉を舌に乗せる。舌の上でさらり脂が融けていく。塩気が程よく効いた肉汁を味わい、奥歯で噛み締めて滲み出る生命のうまみを吸収する。
 わたしの普段の食料はこの配送局から購入し届けられるものだが、このつまみはこの場所でしか食べられないものだ。元より鼠の食害に遭いにくいもの且つ保存の利くものしか食べられないわたしにとっては、燻製にでもしない限り脂の乗った肉の薄切りなどは家におけるものではない。しかも、例え置いたとしても、缶物では無いが為に鼠の餌食になってしまう。

「しかし、最近気になる噂があるんだがよ」
「んん」
「近頃旦那がスライムと同棲してるって言う奴が居るんだわ」
「へえ」
「まさかたあ思うがよ、しかも今まで見た事無い様な奴だとかって」
「よく当人に訊ける勇気があるもんだな。
 下手したらその同棲してる魔物に不興買われて襲われるやもしれんぞ」

 わたしは串肉を店主向かいに差し出して、横に振って店主の視線を買う。それから肉汁一滴をも残さずに頬張って言った。

「んああ、何だ。冗談にしても怖えわ」

 大男は眉を吊り上げて奇妙な顔をする。
 その表情に合わせるように、わたしは出来るだけ事も無げにビールを飲み、答える。

「まあ誰が見たかは知らんが本当だな」

 店主は眉間に皺を寄せ一瞬だけ目を丸くした後に瞬き、目頭を左手で覆った。
 半信半疑の噂をぶちまけて冗談めかした答えが返ってくる。そこで胸を撫で下ろしたところに、結局核心を貫かれたのである。目の下を妙にヒクつかせた店主は、カウンターから身を乗り出し、小声で耳元に話しかける。

「お役目御破綻じゃねえか」

 この地域の中でも特に色の濃い肌に包まれた両目が、わたしを一直線に
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