昔03 一人の男

 理想的な恋の相手方を頭や砂地に描いたことは、正直言って一度たりともない。
 私たちの種族は生殖行為に急ぐ必要があるほど短命ではないためである。
 弓術を始めとする武芸や、魔法や知識を蓄える事で自分を高める方が大事なのだ。
 そうやって心技体が成熟と認められれば、そこで私たちは大人として扱われた。
 生後から10年で大人になったものも居れば、300年経ってもなれないものも居た。
 厳格な規律ではあったが、わたしたちが当然守り抜いてきた生活である。
 奪われて結果的に喜ぶ同胞が居たなんて、思いもよらなかった。

 男に優しくされてしまってから、数ヶ月が経過した。
 内心の、最早疼痛と過言無い衝動に、耐え難きに耐え忍ぶ辛い日々であった。
 しかしそれ以上にも幸せな日々であったと思う。

「どうだったの」
「ンン、上々」

 今日も男が麻袋を肩から提げて緑の庵に戻ってきた。
 帰りの挨拶などは無く、ただ私は何を持ってきたのかを確認する。
 布を重ねて厚手に仕上がっている麻袋の中は、殆どが成果に応じて買い集めた日用品で埋まっていた。
 しかしどうやら上々と言うだけあって成果も良いらしく、機嫌が良いらしい。
 男は気怠げな鼻歌を混じらせて物品食料消耗品を掻き出した。
 パンに干し肉に炭酸入りの蒸留酒。
 野菜類は私が用意できる分、男は好き勝手に食料を買い揃えている。
 ことに、男にとって酒とは水の代わりらしく、飲み物ではそれ以外を口にしている様子は無かった。
 稀に見る上機嫌の原因は、登山の途中で先に少し飲んでいたためであろう。
 男はこれで存外、不平不満をのたまう様な男ではなかった。
 自分から私に大して何を求めるふうでもなく、享受出来るものに感謝をする人間だ。
 自由意志に基づいて無限の選択を行い、その結果を受け止めた上で楽しむ事ができる人間だ。

「何ぞ言ゥンネェ」

 男が鼻歌を止めて、それでもなお気怠げで上機嫌な声で言った。
 若干呆けていた事もあり、はっとして男に顔を向ける

「何ですか」
「今“いいなあ”て呟いとッたンお前ヤンか」

 私は男を見ているうちに、無意識で呟いていたらしい。

「...そう」

 男のまわりに怪訝な雰囲気をうかがい知ることが出来る。
 相変わらず鼻の奥にまとわりついてくるようなにおいに半ば酔った錯覚を、かぶりを振って振り払った。
 私に対する男の興味はそれで尽きたらしく、子気味の良い音を出す男は再び荷物の整理を始める。
 それが無性にやるせない気持ちを加速させた。

「貴方は結界を破って此処へやって来たし、此処から出て行ける」

 整理の音が止まったのは、もしや全てが片ついたからなのかもしれないし、違うかもしれない。
 何しろ視界を失ってからというものの、状況把握にはてんでとろくなってしまっている。
 乗じて、男に出会ってからこそ判った事であるが、感情の抑えも緩やかになっていた。
 コントロール不能となった私には、自身を止める術をも忘れていた。
 男は言葉の先を求めていない。
 それは百も承知だったが、主張をしたくて仕方がなかった。
 私を知ってほしいという欲求に、私の自律は負けたのだ。

「これを自由と言わないで、何を自由だって言うのかしら」

 私は何を言っていたのかと気付いた途端、何が次の句になるのか混乱して言葉が詰まった。
 ただ、自然に手に力が入った。

「俺ァ逃げてッだきャァぞ」
「全部知っているわよ」

 あえて口には出す様なつもりもなかったのだが。
 次の句の吐き場を見つけてしまった後は、胎から言葉を出すばかりでしかなかった。
 止まらない事や、それ以外の感情も相まって自分自身に打ちのめされる。
 泣きたくなる。

「ゾンビじゃないわよね。グールに好かれている様子だけれど。
 貴方に纏わり憑いている死臭、剰りの強烈さに最初は頭痛がしたわ」

 男は呆気にとられたのか、ただ私を静観しているようだった。
 その姿勢たったひとつだけでも、心は揺すられて拠り所から遠ざかっていく。
 理解はできなかったが、自分自身への同情はできる気がした。
 なんと情けないことか。
 エルフの自分がこの有様なのである。
 どれだけ駄目なんだと、余計に泣きたくなる。

「貴方が来てからというもの、夜は聖域の外に何か居るわよね。
 私の加護って、要は私はアレから守って居たと言う訳かしら。
 そうよね。
 此処に来る前にどれだけ憑かれて居たか何て知りたくも無いけれど。
 きっとアレから逃げたくなるような眼にあったんでしょうね。
 それこそ、何十日、否、何年身体を洗っても消えない死臭に憑かれて居るもの」
「...俺ャンぞどォだッてよかロォや」

 聞き取りにくく、通った声が私の耳を撫でた。
 先ほどまでの上機嫌は
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