流れる雲を下にして、上る空気を払いのける精霊の聖域。
上に座るは聖域の主にして孤独。
下に立つは破天荒なる新人シーフ。
出会いは不意に取っ掛かり、願いは唐突に降りかかった。
それを叶える事は、伝説として取り扱われていた自分への義理に基づいていた。
「あら」
今し方対話していた老狐が私に囁く内容は、男が麓の森から現れた事だった。
男は動物から愛されない性質らしく、狐は男を邪険に扱って去る。
狐と喧嘩中であった老隼が、私の腰元近くで一声啼いた。
私は隼を宥めて狐に手を振ってから男に顔を向ける。
奇妙にもあの男はこの聖域を帰る場所と定め、その許可を私に願った。
男に願われた私がその声を聞き入れたのは、少しばかり前のことである。
隼が言うには、ゆるりとしつつも毅然とした足取りで、山を登ってくるらしい。
―嗚呼、何たる忌々しさか。
彼奴の足は山を汚してもなお毒を落とす。
踏まれた土壌は枯れ腐り、触れた蔓葉は爛れておる。
老隼はそこまで悪態に悪態を重ねて嘆いた。
風に伝った男のにおいが、彼の影より先んじて届く。
苦味や渋みのある人間一般のにおい。
更に、それを上回っているとあるにおいを隠す、高級な香料のにおいだ。
こんな普通の男が、聖域の何を穢すのか。
草木の主たる私にでさえ察知できない領分に変化があるのか。
隼にその変化を知覚したのかと訊こうとしたが、それは数枚の羽を残して飛び去ってしまった。
結局、あの二匹がしている喧嘩の仲裁は日を改めて行う事になったのである。
「帰りよォたらン大抵そこ座ッてンネェ」
じゃらじゃらりと金物のぶつかる音がした。
やってきた男は、伸張した麻袋に何かを入れているらしい。
出遭った時とは粗変わらないながら、男は若干の小奇麗さに変化があった。
私が指摘を繰り返し、男の気が滅入るまで身嗜みについて説き伏せたゆえだ。
「それ隼ン羽かァ、綺麗なモンだナァ」
「頭にでもつけると良いわ。襲ってくれるわよ」
「うヘェ、そりャ良いこッて」
「今日はどこへ行っていたの」
「里ン近くにャる御家サネェ」
山の麓には森があるが、その先には人の住む場所がある。
それを私は規模に応じて里や村、集落から小国や都と分けて区別している。
里は山から見える範囲では比較的小規模の住戸群であり、御殿が三つほど建っている。
その内のひとつどころあたりから、男は何らかの働きをしたのだろう。
私は首を回して一息ついた。
「その袋の中は何」
実体を指さずとも何に向けて問うているかなど、男には判る。
「いやァ、今日ン稼ぎャア売りよォて拵えた物サァ」
どさり腰を落としてその袋を漁る男から、とあるにおいが鼻にまとわりつく。
この男の動物への嫌われようは凄いものだ。
それもこれも、このにおいのせいであろうことは容易に想像できた。
男は気味の良い音を出す細い鉄柵を組み立てて、簡易棚を作りたてた。
「アンモニア、炭素石灰、塩硝石ィ...硫黄弗素に燐鉄珪素ット」
更に、麻袋のポケットらしきところから粉や固形物の入った梱包袋類を木箱にしまい分ける。
悉く手入れ不十分な木箱の一部は焼け焦げているらしく、以前は更に危険なものを入れていたのかもしれない。
「ッとン、バーナコンロ、薬缶、漏斗、乳鉢、黒臼、硝子玉」
「何、アンデットでも作るレシピに聞こえるけれど」
「ヤァ、身代わりさねネェ」
「身代わりとは、これから呪いでも受ける予定が御有りの様で」
「ンンン、そンリャ遅いネェ。とォに付き纏われトォわ」
「随分悪事を働いているようですし、お気の毒様」
「心にも無いッてかァ。厳正たァこの上無ェなァ...よォし、完了」
男は空になった麻袋の縫い目を切り裂いて、即席棚の上に覆い被せる。
それから、男は緑の庵に眠るために這入っていく。
薬屋とはまたひとつ違う雰囲気を風で洗い流し終わる頃、私もまた緑の庵にいた。
新たな聖域の住人のために用意した棲家の手入れをしていたのだ。
伸びる蔓触れ指を折り、爪で葉を取り広さを開ける。
新たな庵の中には一切の風が吹かず、草木と一心に向き合えた。
不思議なものである。
草木に囲まれることに離れていたが、風を受けないだけでこうも心の持ちようが変わるとは。
私は草木に対してのみ愛情を注いで笑うことができた。
男の作った薬棚が庵の隅には置かれており、草木はその存在を気に掛けている。
また、隼の嫌ったとおり鼾を鳴らして眠る男は草木にですら歓迎されていないらしい。
それらの不満は聞き飽きているところであるが、草木の成長に影響は無い。
「随分と、まあ、おはよう」
月が幾許かの闇を残して照らしている宵の中、緑の庵から出る影があった
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