最も近い人里から、それでもひとつ山を越えた場所にある、年中冠雪の大きな山。
麓に広がる緑色は鬱蒼として深く、猟奇的な山鴉の声よりも大きな音は、基本無い。
そんな閑散とした深い場所の中にある、綺麗に澄んだ泉に私は住んでいる。
泉の近くには一軒の見窄らしい木屋があった。
私の家ではない。
そもそも私はわざわざ家を建築によって構えることを良しとしない。
現存する洞穴などに手を加えて住まう事が、最良の選択だと思っている。
多くの大木を倒し、削り、家を築き、果ては風水を乱す。
利便性一辺倒の小さな制限された空間ではないか。
このようなものを作ることなど、見栄っ張りで浅はかなる人間だけの特徴だろう。
とにかく、そのような苦言を散らかすことのできる程度には汚い家なのである。
私はあのような場所に住まう人間に興味があった。
そこに突如出現した時から、かようにひどい有様である。
自然と一体化し掛かっている脆弱な家の主は、何を思ってそこに住んでいるのか。
何を思ってそこに居を構えたのか。
何を思って人里離れたこの場所に。
幸いあるいは不幸にして、私の住む場所から家は観察出来た。
視界の邪魔だと少しながらに思いつつも、家主が現れる事を待ってみた。
主人はなかなか姿を見せず、とうとう季節が過ぎて秋になった。
その頃には既に家の近くまで行って中を覗く、ちょっとした趣味ができていた。
しかし家主は一向に現れず、建てるだけ建てて依然として消えたままだ。
剰りに不自然で、剰りに興味を注がれる事態である。
私はこの冬の頃には、家は魔法使いの仕業なのかも知れないと思い始めていた。
一夜で城を築き、一晩泊ってからその地を後にする旅の魔法使い。
そのような話について、幼いときの小耳に挟んだことがあったためである。
私は築かれた意味を思いつつ、中を覗いては塒に戻る。
連日連夜、それは既に日課とすら言える。
どんな人間が家を建てたのか。
また帰ってくることはあるのか。
夢想しながら、私は確かに壁の隙間から見える屋内をも諦観していた。
「...おい、お前」
だから、最初の出逢いはもの凄く驚いた。
「お前、起きろ」
いつもの洞穴に、見知らぬ存在がいる。
私は目を見開いた。
存在感知については一家言自信ありと内心常々に思っていた事だったのだ。
飛び起きてそのものを見るや、成程その存在は人間の男だった。
その男は薄布を何枚も重ね着させた全身黒尽くめの風貌をしている。
顔もまともには見えない。
判る事と言えば、細めの身体から押し殺した声が投げかけられている事だけだった。
「お前水神の巫女だろ」
「な、なんですか。どうかしましたのでしょうか」
「用が在る」
男は低い声で言う。
「水を呉れないかと思って自ら遣って来た」
「みずですか」
「そう、水」
寝耳に水の話をされても、それこそ理解が追いつかない。
私は顔を見せない男を睨み付けるが、恐らく威圧など出来ていないのだろう。
如何せん涙目である事ぐらいは自覚している。
声の震えも瞼の熱さも、きっと寝起きのせいだと思うことにした。
仕方がない事なのだ。
「蛇女、しかも白いときたら、高位の水妖だろう。ちょっと使いたいのでな」
「龍神様に捧げる水です。そんな理由で水を貰えるなどとお思いでしたか」
「きっとリュウジンサマとやらだって、結果的には喜んでくれるだろうよ」
「...寝込みを襲う様な人間なんかにはあげたくないです」
「襲ってねえし、そもそも寝込み襲うなんてことすんのは、妖怪の方だろうよ」
「私はしません」
「散々俺の家覗きまくってた癖にか」
「え」
私は上体を起こしている。
男は塒の境界段差としている大岩の上でしゃがんでいる。
男を見上げるかたちに成っているまま、私は身体を硬直させてしまった。
やはり、仕方がない事なのだ。
「散々放置しておいて、何が俺の家ですか」
「誰も住んでなど居まい。ならば今日からあそこは俺の家だ」
誰も住んでなど居まい。
つまり、あの襤褸屋の主は一夜にして築いて、去ったのだろう。
確かにあの家の雰囲気は無人だ。
実際に無人である。
しかし、戻らないと決まったわけでは無いだろう。
私は今まで何を夢想してきたのだ。
諦めていた節の有無については口を噤まざるを得ないが、それでも期待もしていた。
いきなり現れた男の言葉には裏が見えない。
信じるに値しない。
「どうしていつも私があの家を見ていると知っているのですか」
「跡が残ってる。獣道ができてるし、窓の一部に埃無いし」
「...それでも、あの家主が戻る事だって、有り得ましょう」
「無いな」
「理由などないのでしょう」
「この俺が仕事を全うしたからだ」
「...意味が判りません」
私は今度こそ男を睨み付けた。
決して強い気迫で迫ることが出来た
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