遠くの滝から毎秒数リットル程度で流れ込む清水の泉がある山の麓。
泉を囲む巨岩の所々は綺麗に苔生しており、周囲を薄く包む木陰が涼やかだった。
透明を極め、はっきりと見える底の一部からは微細な気泡が浮び上がっている。
滾々と冷たい水が湧き上がり、時折大きな気泡が音を発てて空気に解けていく。
人里から遠く離れて寥々とした世界は、ひとやまものとは違う種の音に溢れていた。
「ねえ」
その自然が奏でていた音幕をぶっきらぼうに裂くような、綺麗な声が山に加わる。
雰囲気を楽しんでいる様子もなく、ほぼ自己完結的な言い方であった。
声は岩に跳ねてから甘美な余韻を残し、水面や森の葉に吸収される。
「釣れた?」
弱い風に揺れる水面には、青い空から薄く浮き彫りにされたふたり分の黒色がある。
ひとつはひとであり、またひとつはまものと呼ばれる存在であった。
その片方が口を開いたのだ。
切り出したのはまもので、それは女であった。
それでいて甘く媚び色の帯びた彼女の猫撫で声が、釣り師の様子を伺う。
彼女は極端に妖艶な存在であった。
橙色に染めた絹のドレスを着込み、金の髪と尻尾を持っている。
頭上に凛と立っている狐の耳は、見るだけで気配の察知能力の高さを示していた。
そして何よりも彼女を特徴付けるのは、尻の少し上から見える八房の尻尾だ。
風に波打つ金毛が先端迄に短いグラデーションを掛けて純白に変化している。
橙色に金色が浮き出るその様相に負けないよう、服装にも様々な柄を付けている。
一部は布そのものを切り取り、下地や肌を露出させる事で調和を呼ぶ。
結果的に、服装そのものから色情溢れる雰囲気が醸し出されていた。
また、その服に負けない彼女の顔は、大人になった経過を持つ少女の顔である。
彼女を見る者を本来の意味で虜にするだけでなく、あどけなさも持ち合わせていた。
本来その自己主張の激しい風貌は、周囲の風景に同化するようなものではない。
しかし不思議とその雰囲気は自然に溶け込み、寧ろ自然を自らで体現してすらいる。
それどころか、彼女を基盤にして自然は作られているかのような錯覚すら覚える。
自然に異質である女の声は、極論で言うならばやはり泉に溶け込む涼やかなものだ。
「んん」
唸るような、得体の知れない声を上げたのは女ではない。
女の声に応えるべくして答えた、もうひとつの影であったひとである。
ひとは男であり、泉を暢気に眺めている。
厚手の茶色や緑色の服を着込み、竹を麦わらの様に曲げて作った帽子を被っていた。
彼の耳に下がるピアスからは、帽子の日陰でも光を放つ青の石がある。
強く青い光が彼の頬に辺っており、男はずっと半目を瞑っていた。
「そろそろ釣れるんじゃないかなあ」
虫や魚卵どころか返し針すら無い釣り針と細糸を水に垂らしながら、男は応えた。
女に対して男も大差なく、素っ気ない返事であった。
そのふたことで、ふたりは再び黙った。
清水を縁取る岩の上で、狐は空の音を聞く。
薄くたなびいている雲の上で強い風が吹き荒び、澄ます耳の奥に響き渡る。
口を小さく開けて男の顔を見遣るが、泉面から視線を動かす事はない。
呆けているのか無視しているのか判らない。
溜息もなく小さな唇を噤んだ女は岩肌に生えた苔を優しく撫でた。
湿り気を細やかな繊維質の数珠が心地良く、静かに目を閉じてそれを甘受した。
「そう」
女は静かに男に近づき、寄り添って糸の先を見つめた。
肺に溜っていた呼気の塊が自然と漏れ出ていく。
布の擦れる音が聞こえる。
暫くすると、男の寝息が聞こえるようになった。
男の首が船を漕ぐ雰囲気を感じる。
男が女の傍らで眠るほどに、自分が信頼に於ける存在である事は嬉しかった。
頬が引きつる。
耳を澄ます。
空の音が聞こえる。
くう、と聞こえた。
どうやら眠っていたらしい。
男が目を覚まし辺りを見回すと、既に夜の帳が降り始めている様子だった。
身体が少し硬くなって痺れているが、男は身体を動かさない。
左側に女が寄りかかっており、心地良い。
女はただただ温かく、ただただ愛くるしく艶美に眠っていた。
保護欲をそそる魔性の姿に、考える。
「...いや、痺れるなあ」
考えようとした事を、次の瞬間には放棄した。
泉はもう薄暗い中にあり、その様を見る事が出来ない。
温い風が身体を冷やさないようささやかに辺りを囲って流れている。
「おおい、オイオイおぉいおい」
不意に、甲高く機嫌の良い声を捲し立て散らす有翼の魔物が謳って降りてくる。
魔界を探して立ち寄ったのか、この山を住処としているのか定かではないが、煩い。
存在からして半端の無い騒々しさが周囲一面に散々充満している。
男が小さな音にも本来敏感である狐を気遣おうか逡巡していると、魔物が笑う。
「ナンだナンだよナ
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