飛脚録

風に吹かれた木々のざわめきがおどろおどろしい。
虫たちの小刻みに腹を打ち、羽根を擦って鳴らす音も静まる頃の夜だ。
せめて月が出ていればと内心に秘めて男は無表情を決め込んで山中を歩いていた。

男は本来、その足を持ってして韋駄天もかくやの速さで街々を駆ける。
生粋の丈夫さに足してその職から鍛え抜かれた足腰は、一国屈指の存在なのだ。
ただそんな男も遠出の場合には、馴染みの馬屋から一頭借りこんで旅に出る。
流石に天狗の足だと持て囃されても、馬の足には到底勝てないからだ。
今回の場合、それが災いしたとも言える。

「水を」

絶え絶えになっている息は男の不穏を表わすのには充分なものだった。
親切な人が一人でも居るならば、即刻その憔悴回復を手伝おうとしたことだろう。
それでも生憎、夜の山中に男以外の人間など有りはしない。
寧ろ男はこの山中でたった一人の存在でありたいとさえ思っていた。

「…水」

霞が買った静寂の膜を裂くように、馬の嘶く声が聞こえた。
男が山入りする前に麓で降りた馬だ。
その声の意味が断末魔か悲鳴か猛り声か威嚇か、男にはよく判らない。
ただ、もうあの馬には乗る事など不可能だろうという事だけは確かに感じていた。
屈強な者は馬の扱いが巧みだとよく言うが、男は御すに厭う事もない域である。
そんな男が好んだ馬が、その馬であった。
それが今し方聞くには近く往くには遠い場所で、慟哭めいた声を上げた。
話程度ながらな噂では、この山で大熊のヌシを謳っている。
そのものに食われたのか、或いはまた別の何かに捕われたか。
どちらにしろ剰りに呆気ない別れである。

「、水」

ざわめく。
今は本来ならば自分と馬の喉を潤す水を求めている筈だ。
それが何故馬を置いて山に入っているのか。
何故沢の手掛かりすら探さず、本丸ばかりを見つけようと躍起になっているのか。
男の脳は漿ごと掻き回されて、思考回路が真っ白になっている。
耳からの情報はほぼ遮断され、視界に映るものが何かすら正確な処理を行えない。
身体は焼け爛れて凍え始める一瞬前に似た感覚が続いていた。

「きしし」

それでも男を跳ね上がらせる笑い声だけは確かに耳に届いている。
闇が灯に揺れる様を否応なく見せ付けられている。
恐怖と焦燥と後悔と絶望が傷だらけの身体の中で渦巻いている。

「み。ず」
「しししし」

愉悦を歯に噛んで楽しんでいるような笑い声だ。

「ィず」

それは間違う事なき少女の声。
現実に存在する声だ。
但し、その声が響くには舞台が可笑しいのだ。
剰りに可笑しく剰りに不愉快で、恐怖するには充分なものだった。



この一連の具体的な経緯を知るには、時間を戻す必要もない。
男は山頂の岩場に辿り着く。

「ンィィ…」

呂律そのものを失い、焼き切れ果て黒く焦げ付いた思考回路に神経を回す。
せめて客観的に自分を見る事が出来るならば良かった。
それすらも侭成らないとなれば、もう既に手遅れだ。
始まる前に、終わっている児戯と同じだ。
男は振り返る。
声を頼りに後ろを見遣る。
正体は少女。
それだけは知っていた。
それだけ知っていれば、十二分であった。
相手が化け物であるかないかは、男にとってどうでも良い事だからである。
襲われる事には、結局変わりようがないのだ。

「しし」

その声はあどけない。
その姿はあどなしい。

「ししし」

腹に宿る灯火をひけらかす様に飛び跳ねている様は異様であるにしても綺麗。
木々の間を舞う姿が人外であるにしても無邪気。
美しく光を揺らめかせる少女は、それでも男にとって只々禍々しい存在であった。

「ねえ ねえ」

とん、と少女は着地した。
着物の袖に染められている巴紋様が、男にとっては目玉に見える。
大きい蛾とも捉える事が出来た。
そんな少女が、男に優しく話し掛ける。

「どうしたのさぁ」
「…ぅあア」
「僕ってばそんなにおかしいなあ」
「あああああああ」
「逃げないでよう、寂しくなっちまうじゃんか」
「うわああああああああああああああああああああああああああああ」

諤々して叫び出す男に、飄々とした少女。
狂っているのは確実に男だった。

「やめろ! やめろ! やめろ! やめろ!」
「なんでだよう。ひどいなあ」
「やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめ」
「煩い」

ぴしゃり一言で少女は男を沈黙させた。
端を発したと同時に飛び掛かり、男の首を締め上げたとも言う暴挙である。
少女の細い指は男の首に括るには小さすぎるものだったが、何分重い力があった。
男は元より真っ赤であった顔を青くして、だらんと力を抜く。
極度の緊張に、身体が逆に弛緩した。
そこで初めて男は自分を取り戻す。

「苦し」
「え? 何だって?」

力が少しだけ抜けていく。
その隙
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