「あ」
柔らかく優しい、無邪気さを感じさせる声だった。
そんな幼子の声で、初めて目を開いていた事に気付く。
「気が付いた」
子供の声の向こう側で、しとしと音がする。
雨を屋根から漏らしているような、或いは岩屋天蓋から水が染みているような音だ。
声が若干響いている事に気付くと同時に、身体に子供の熱が伝わった。
特段朦朧としているつもりもなかったのだが、どうやら実際はしていたらしい。
「俺は寝ていたのか」
声を出してみると、喉が傷んでいる事に気付いた。
厭に塩気を感じる上、喉奥を引っかき回された後のような気分であった。
舌根も渇いている。
口の中が非常に気持ち悪く、粘膜のような針玉を含んでいる気さえする。
「いや、目は開いてたけど、そう。寝てたんだね」
「今気が付いたんだ」
「判ってるならわたしに訊かないでよ…わけわかんない」
「ああ、すまん」
真っ赤になって嘆息を漏らす子供は、男の乱れた服の隙間から腹に触れていた。
「ここは地獄かな」
岩窟の天井を見て男は思った。
男は海の渦に飲まれ、船から滑り落ちた筈だ。
死んでいない筈は無いと思える程の規模だった。
もしここが地獄なら、天は罰を与えたのだろうか。
少女を私の隣に置いて、面倒を見るどころか攫う事すら能わない。
それは男にとっては幸運にして、とても不運なことであった。
「どうしたの急に」
子供は訝しがった様子で、男の視界に下から這入り込んで来る。
その姿に、男は思わず目を見開いた。
「…おまえ、いや、まあいいか」
「何なのよさっきから…」
裸の子供というものは、薄暗い洞穴に見合う姿ではない。
しかしそれも此処が地獄というのならば、別に何を思う事も必要ないのだ。
ますます現実味を帯びない地獄という感覚に、男は寒気を覚えた。
どのみちいつかは地に落ちる身だったとあれども、もう少しは長生きしたかった。
一人でも人を殺しておいた方が、楽な地獄の落ち方だったのかも知れない。
何にしても、男はこの元凶を自分だと知っていたので受け入れざるを得ない。
男は人攫いで身を立てていた。
妻子を取る暇もないほどに、子を攫い、飼育し、教育して売っていた。
それらで得た稼ぎから出る余裕金は、ほぼ全て一匹の飼い猫に捧げていた。
地獄では猫にも会えまい。
呆然と思えば再び寒気を感じ、身体の違和感に気付いた。
腰下から股下までを覆う衣服も、局所を覆う下着も剥ぎ取られている。
上着はやはり来ていると判るのだから、何故下だけを失っているのかが判らない。
地獄と思えば、否。
少々不自然が過ぎている。
「えっと、あの」
男の違和感に気付いたのか、子供がしどろもどろに言葉を吐き出そうとする。
見るに無様で、まるで子を叱る親のような気分にさせられた。
そう考えてしまうのは、男にとって酷い皮肉だ。
やはり地獄だと言われてしまえば、納得だって出来よう。
「ううん、ええと、た、たたないから、どうすれば…いいのか」
相も変わらず赤の引かない子供の顔が、理解出来ない言葉を吐いた。
「いや、意味が」
判らないと男は言おうとした。
しかし、判り、悟った。
それを言い終わるまで気付かない程、男はのろまでもないし莫迦でもなかった。
男は黙って子供を視界の中央に捉えて抉り込むように見つめた。
「…な、何」
相手はあどけない少女である。
足の付け根、骨盤の外側や手首などには小さな火山のような瘤が出来ていた。
その姿は異形にして、男にとって納得のいく丁度良い風体であった。
自分の知っている様なものとよく似てこそいるが、恐らく実質が違うものだ。
それなら、そんなものが居るここは何処になるだろうか。
地獄と断定しても良いはずだ。
男の罪状に対する報いがこれで、間違いないのだ。
「わがのみのとがみなそこにふせくくりうとまずまなごやおどろをうらめ」
届かないと知って、男は呟いた。
別に聞かれようとも思わない。
特に想われようとも願わない。
だからこそ、心を宛てて送る必要に運命的なものを感じた。
そして独白する。
「俺は勃たない」
「え」
少女は男の発言の意味も意図も理解していない。
男は自分に係る現実が如何に下らないものであるかを、痛感した。
しかし痛みこそが男に与えられた罰であると、抵抗する気を起こさなかった。
だから、これは抵抗ではなく、忠告。
より必要とされる罰を受ける為の道標なのだ。
「無駄って事だ。俺はそういう事の出来る人間じゃない」
少女は男のそれを握っていた。
浄玻璃の鏡には子供を攫い、売って歩く男の姿が映ることだろう。
その男には、子供の末路など昔から見えていたのだ。
子供らと同じ末路を辿らせようと言うのなら、これも当然の報いか。
今は男は攫ってきた子供と同じ存在であるという事か。
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