一匹目

猫はいい。
そういう生き物は、なあなあとしたこの人間世界では強者に君臨できる生物である。
にゃあにゃあと言っていれば、人間なんて悶えさせてしまえるのだ。
甘えるふりでもしておけば、たらふく飯が食べられる。
偶に追いかけ回されたりしているが、そいつらは随分と猫の事を判っていると思う。
猫は、王者だ。
少なくとも、そう思っている輩が多いものだから、場合によっては相当煩しいだろう。
私はそういう身分も弁えず気取ったばかりの社会に飽き飽きしていた。

「やあやあ、そこのお兄さん。一体何処へ行こうとしていらっしゃいますかな」

薄い箪笥を背負って歩くひとりの人間に、団子売りの娘が威勢良く声を掛けた。
青空のようにからりとした、清々しい声だった。
私はこんな声が好きだ。

「ええと、この道をずうっとだから」

男はのびやかに答える。
この男の声はまるで綿雲のよう。
容姿が少年と言っても過言ないだけに、癒される。
ふんわりしっとりとした雰囲気で包まれており、眠たくなっちまうような音を出しやがる。
私はこんな声の方がもっと好きだ。
あったかいのだ。

「南西かな」
「そうかい。道の先の"見返り松"は振り向いて見ちゃ駄目だよ。それじゃあ良い旅を」

道端の団子屋は、きっといつも通りの警告をしたのだろう。
慣れた雰囲気だからそうに違いないと、私は確信した。
人心を操る事など猫には容易い事なのだ。
であるからにして、私はやっぱり人心というものをしっかりと判っている。
普通の猫はそこまで深く考えたりはしない。
私が特別なのだ。

--どこ行くのさ-
「んぉ、どした、お腹減っちゃった?」
--違うのさ、あぁもどかしい-
「あっはっは。待って待って。急がないで」
--違うと言うておるのに-

しかし私は、喋られない身体なのである。
どうにもこうにもにっちもさっちもいかなくて、大変面倒なのである。
そうなのだから私はさっさと男の先を歩く。
走る。
向こうに見える一本の木まで、一気に。



--おうおう-

ただただ一本高く聳え立つ杉は、気概の良さそうな娘の言っていた木の事だろう。
此処まで走ってきたんだ。男はきっとまだまだ時間の掛かる事だろう。
私の準備体操にも成り得る訳のない運動を、あの人間は相当の時間を掛けてやり遂げる。
そりゃあ別の人間の場合と比べて、何事もやり遂げるだけマシだろうとは思うが。
それでも時間の掛け過ぎなのである。
私は、一本杉を仰いだ。

(あら、貴女も妖怪なのね)
--判るのかえ-
(勿論、判りますわ)

私の睨んだとおりだ。
この杉も、私と同じようなものである。

--姿を顕せ、隠遁者-

爪を出して、杉のぼろぼろになった皮を一枚剥いでやった。
手が痛むからあまり好んでしたくはないのだが、爪を研ぐのにも一役買って貰おう。
もう一枚。
あと二枚。
まだ三枚。
それ四枚。
ほら五枚。
段々と楽しくなってきた。

(三毛もオスなら高値でしょうけど、貴女メスですものね。道理で下賤だわ)
--なにおう-

杉の言う事など右から左に受け流し、半分霧中で樹木を削いだ。

(はいはい。判った判った。出れば良いんでしょ、出れば)

高く陰る木の枝間から、焦げ茶の衣服を纏った女が降りてくる。
木の妖精だか何だか知らないけれども、怪だものである事には変わりない。
まあ、人間の男なんかが見たら、「うわぁ」なんて惚けた声を漏らすような姿形だろう。
そんなの私にはどうでもいいことだけれどもなあ。
あの男だけはこんなやつに取られちゃ困る。
毎日ご飯は食べたいからなあ。

「貴女もひとがたになってしまえばいいのに」
--爪を使うにはこっちの方がずっと慣れてるのさ-
「あら嫌だわ。だから発情猫は嫌いなのよ」

長い髪をひらひらと風に靡かせて、杉女は見下してくる。
こいつの風下には立ちたくないな。
髪の隙間から頭垢みたいに花粉っぽいのが飛んでいやがる。
たぶんきっと、あれは元々オスだったっていう過去の残滓なんだろうなあ。

「何苦虫噛んだような顔してるの。醜いわよ」
--うるさいねえ。とりあえず、話を聞きに来たんだけど-
「よく鳴く猫ね」
--木はまず喋らない筈だけど-
「何よ。話を聞きに来たんでしょう? 聞きたくないの?」
--別に聞かなくても、私の判断一つでお前なんか薙ぎ倒せばいい-
「勝てると思ってるのね。樹齢幾百もの私に」
--馬鹿馬鹿しい。あんたの年齢は自慢になりゃしないよ-

杉の顔が赤くなる。
軽く怒ったらしく、髪を振って私に花粉のまがいものを降りかける。
どばどばと波のように空気と共に、私を襲ってきたのである。
その様子を睨み付けるだけで、私は動かなかった。
当然、被る。
蒙る。
うわ。
これは気持ち悪い。

「まるで錆猫。私のお陰で味が出てきたの
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