シンから伝わる食べ物ではなく、春雨という雨がある。
しとしとと静かに降り続け、桜の花を湿らせて落とす天気だ。
男はその雨を、偶然にも桜の下で眺めていた。
桜の幹は太く松のように節くれており、相当の年月を重ねてきたと一目見て判る。
その地域では有名な桜であり、名前程度ならば三千里を越えても知られているだろう。
それだけあって、春になると荘厳たる光景を一樹だけで演出してくれる。
呆けて木に寄り掛かる男は、一升瓶の酒を直接口に運んで呑んだ。
長く息を吐き、幽かに香る桜の空気を舐める。
桜に限った話ではないが、雨上がりの花は相当の匂いを放つ。
そういった胸一杯に広がってゆく薫風を嗅ぐ事が、男のささやかな楽しみの一つだった。
さあさあと小さな川が流れている様なさざめく音色を、小雨長雨が奏でている。
はらはらと花葉に触れる雨が聞こえる。
しとしとと根や土に当たっては染みる音色が聞こえる。
男は時間をたっぷりと使い、ただ五感で肴を見つけては瓶を傾けていた。
暇を持て余していた。
只待っているだけであった為である。
この近くにある家へ濡れて戻ろうと思う事も、屋内で大切な用事がある訳でも無い。
と言うか極力であれば濡れたくなどない。
長い時間雨に当たると、風邪に惹かれてしまう。
熱に浮かされてしまう事など、男にとっては気が気ではなくなってしまう事なのだ。
「遅い」
ただ何となく口から出た言葉は、男の心中を吐露するものであった。
花見酒を呑んでは待ち侘びる。
男に草臥れた様子はないが、少々肩を重そうに回して扱った。
「嗚呼。暇だ」
しかし言葉とは裏腹に、男の声はどこかしら期待をしている。
待つ事自体を楽しんでいると感じられる声だ。
土から大きく露出した木の根に座って忘憂を啜る。
啜った時に瓶の中へと息が這入り込み、蚊の鳴くような梟の声差しがした。
「しかし」
淡くぼやけた遠くの山々を眺めていた視線を、頭上へと移す。
山と負けず劣らずの淡色が目の前に広がった。
遠くは緑色であったが、こちらは極薄の紅色である。
「矢張り佳い桜だ」
その雰囲気は視界の色彩感覚を狂わせ、ぐいと引き込まれてしまう。
両足を踏ん張り固めて居ないと、魂を上から吸われるような錯覚さえ感じられる。
しかし、この桜が精気を吸うのも間違いではないのかも知れない。
何より幽霊伝説のある桜の木である為だ。
それは国を歩けば偏在的に存在する悲劇だろう。
この地域が高名な貴族の私有地であった頃、桜と同じ年を重ねて育った娘が居たらしい。
桜を愛した娘は、充分な愛を持って木を育てたという。
深く愛されて育った桜は、しかしとある頃に血に染まる。
娘の生きた日々は今で言う革命、激動の時代、変動期であった。
その一時の荒波は、娘に絶望的な未来のみを招いた。
どんな経緯があったのかは諸説あるが、これといって断定できるものは何もない。
悲しき娘が選んだ死に場所こそ、その桜の木の下である。
以降、桜の散り際にその娘が現れるようになった。
儚げな夢現の幻は度々目撃されるが、悲しそうな目で桜を愛でているだけだという。
その“麗しの君”とさえ称される娘の霊の噂は国中とも言える程に広まっている。
有名なのは道理。
ただ、美しいばかりではない。
その娘見たさに、今年も多くの人間がやって来ては諦めて帰っている。
娘はおまけ程度の感覚なのだろう。
全ての人間がこの恐ろしくも素晴らしい桜の木を見るだけで、もう満足してしまうのだ。
幽霊の娘に会おうという気力など、見ただけで桜に吸われてしまっている。
男は黙って瓶を呷る。
一升が空になる。
「全く、遅い」
鼻歌交じりに男は待った。
男が女と出会ったのも、こんな日だった。
通い仕事のその帰りにゆらり霞掛かった外を歩いていると、傘も差さずに歩く女が居た。
真っ赤になった男は黙って傘を差し出して、雨の中を走っていった。
その時女の衣服は濡れきっていた。
初心であった男は碌な会話どころか、視線を合わせる事すらも出来なかったのである。
若かったとは言えども色恋の類の縁など男には無縁であった。
早くに親を亡くし、寝たきりの妹を養う事に精一杯勤める他無かった。
とは言え、かのような女に一切構わず逃げたなんて、と男は家に帰って後悔した。
あのおなごがあの後に襲われてしまったら、それは自分の責にある、と。
「にいや、それはきっとぬれおんなだよ」
薄い布団の中に眠る男の妹は、笑って言った。
「傘も差さんとずぶ濡れなんて、ぬれおんなだよ」
その言葉は男を気遣っての言葉だ。
それくらいは男にも判っていた。
幼い頃に男は父親母親から、あやかしの類の話を聞いて育った。
妹と引替えに命を落とした母親の穴を埋めるべく、それまで以上に父は懸命に働いた。
働きすぎた。
結局、残
[3]
次へ
[7]
TOP[0]
投票 [*]
感想