研究

 わたしと水妖が出会ってからややあって、簡易的な記録や考察を所有の紙類に認め終わった頃の事である。今日のスライムは魔方陣つきの金属盥に入ったまま、午後の警備に出向くわたしを見送った。
 家を離れると、川沿いを下流に向かって歩きつつ研究に係る今後の種を練る。
 本日の研究課題は準備済みだとして、次は何をするか。
 今ひとつ面白そうなネタが思い付かないが為に、適当に考えたもので探りを入れていこうかと思ったとき、鼻の頭を雫が掠める。
 雨だ。
 見れば細道草は雨粒に跳ねるように踊り、路傍の石にも色濃い点が幾らか降りる様がある。耳にも確かに大きな川の流れる音に紛れて小雨の降る音が這入りこんで来ていた。最近は注意力が散漫気味になっている自覚があるため、少しばかり気を張り直す必要があるかもしれない。

「雨の中ご苦労さん」

 少し大きな雨粒が肩を叩く。
 わたしはベルトの後ろに掛けている革と留め金でできた袋を取り外して展開し、鍔付帽と傘を作る。鍔付帽は再び袋状に戻して腰に掛けなおし、傘を差して雨から逃れつつ歩く事にした。
 この天気は見越していた。故に装備も事前に手を入れていたし、今日は晴れの日よりもかなり多めの清め塩を持っている。

「ちゃんと聞こえてンのか」

 しかし小降りとは言え一面の雲である。なかなか雨止む気配は感じ取られない。雨も剰りに長引くならば、川の増水による堤防の決壊も当然考え得る話である。それは非常に危険な事だった。とはいえ堤防の決壊と食い止めるといった工事はわたしひとりの範疇を超えているものであるし、発生した際に起こるであろう二次・三次災害の規模からして今後も手に負えるものではない。
 川は盆地に住むものと山に住むものを分断する為の見える境界だ。それがあやふやになるということは境界が喪失する事と同意であり、当然山のものが盆地に侵食言う事である。
ひとえに、決壊は阿鼻叫喚全景地獄の祭典の開幕と等しいのである。

「聞けやおっさん」

 いい加減聞き慣れた声がして、後ろを振り返るが、人の姿も魔物の影も一切見えない。それでも仕事の都合幻聴で事済ませられないため、わたしは辺りを見回した。

「まあた遠くばっか見ちゃってさ。下だよ、下」

 呆れ声のする足元を見下ろす。
 赤頭巾を被った小さな小さな大蛞蝓の幼生がそこに居た。人間の幼児のような大きさであり、下半身が赤頭巾に続くスカートで全て隠れている。大蛞蝓はわたしを見上げて不満げな顔をしていた。

「小さすぎて見えん」
「あからさまな無視も甚だしい限りだぞ」
「そうか山に帰れ」

 俊敏という言葉と大蛞蝓と言う種族は最早対義語と表現しても良いと言われる昨今であるが、その実確かに九割九分九厘の大蛞蝓は鈍い動きのものである。一部には非常に素早い亜種も居ると聞いた事があるものの、この地域ではその種を見たことはない。そんなトロい輩の中でも一番動き回るものが、目の前のこいつである。
 何度川を渡ってきたかも数え切れず、幾度塩を直接振りまいたかも判らない。その遭遇は回を重ねる毎に大蛞蝓の小型化する様を見届け、同時に徐々に頭の回転が速くなってゆく様を恐ろしく思う部分があった。

「折角労ってやったのに」
「雨降る都度態々ご苦労。渡って来るな。素敵な素敵な川に戻れ」
「やだねえ素敵な旦那様探してんだから。
 ひとさまの恋路の邪魔なんて野暮はやめておくれよ」
「そのナリで宣うなよ。お前なんぞに人間は靡かんし靡かせん」
「てめ、あんたがこんな目に遭わせてくれたんでしょうが」
「当然だろうが。終いにゃあもっと縮めて踏み潰すぞ」
「死に目の話じゃないし、どんだけあたし嫌われてんの」
「そりゃあおまえ根本的に」
「わかってるわかってるそーゆー仕事だもんねーツンデレちゃんめーこのこの」
「そのノリは何処で覚えて来るんだ」
「姦しヤマドリちゃんだわさ」

 このよく喋るという特徴は、遭遇の度に発展してきたもののひとつだ。こんな従来の世間一般に取敷かれている大蛞蝓の常識を覆すよう魔物は、たかが大蛞蝓とは言え堪ったものではない。
 寧ろ、口の回る子蛞蝓という新種で発表し銭を稼ぐのも悪くないかもしれない。しれないどころか、もしかするとこれは妙案じゃなかろうか。水妖の次はこの蛞蝓の研究日誌でも綴ってみようか。

「そうか」

 とりあえず、わたしは袋から一握りの塩を持って足元に振り掛ける。

「道理であいつと口調が近い」

 わたしが呟くと粗方同時に、凡そこの世のものとは思えない声が耳元に届く。
 この塩は溶解性・浸透性に優れており、雨が降っているならばカッパを着ていようが側部に伝う水分を通じて効果を発揮する。今回、当の蛞蝓は塩を振り掛けられないようにと赤いレインコートを新調してきている様子だったが、その努力は
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