幾望

おかえり、という幼さの残る声が私を出迎える。
私が家に到着した頃には、外は既に暗みがかっていた。
太陽の切れ端すらも見えないが、しかしまだ明るさの残る空である。
いつもと同様に少女の声を聴き流し、洗面台で手を洗い、後ろの籠に上着を投げ入れた。
台所に移動し、根菜を出して切り落とし、小さな鍋に水を入れて火に掛けて根菜を入れた。
さらに肉を小口に分けつつ、考え、当てどないような虚空に訊いてみる。

「お前、そういやぁ何にも食べないよな。腹が減らないのか」

かしゃん。ことん、ことん。
静かに包丁とまな板を洗って、片付ける。
ふつふつと音を発て始めた鍋に肉を投入し、市販されている半固形のスープの元を入れる。
たちまちにスープのいい匂いが私の鼻腔をくすぐった。
次いで、トーストをオーブンに入れて焼く。

「…へらない」
「ふうん」
「…へってないもん」
「判ったよ」

葉菜を水にさらしてちぎり、皿にのせてから油と酢と胡椒を混ぜたドレッシングを掛ける。
更に、スープに溶き卵を回すようにして注ぎ入れる。
そうして出来上がったスープを器に入れ、パセリを落とした。
出来上がったサラダとスープを食卓に運ぶ。食卓を布巾で拭いてから、食器を出した。

「…どうしてそう思ったの」

今までにはこのような事など無かった。
声が、私に質問したのである。
私は多少驚きながらも、心を平静に正し、食卓前の椅子に座った。
そして、少女の言う隻句に対して決して訝しがらず、素直に答える事にした。

「俺の知っている生き物は、何かを摂取して生きているから。
 “おまえ”にも、好物や苦手だったり駄目な物ってのがあったりするのかなと思ってね」
「…別に、ない、そんなもの」
「そんなもの、ねぇ」
「…別にいいでしょ」
「まぁ、何でも食べられるってんなら、悪い事じゃないよなぁ」

暫く耳を澄まして待ってみたが、声は返事を出して来ない。
それどころかひどく重く冷たい雰囲気が私の周りに充満してきた。
少女は稀に、肝胆寒からしめてくる様な沈黙を我が家に漂わせるのだ。
その無言の圧力には、非常に耐え難い。
一度このように黙られてしまうと、暫くは口を出す事もない。
この事象を否定したい人間にとっては都合の良い状況になる、というわけだ。
しかし、私はその例に当てはまらない。
数年間もの時間を声と共に過ごし、最早生活に溶け込んでしまっている。
無くてはならないものとまでは言わないが、無ければ無いで欠けている様な感がある。
化学的で科学的なものを肯定し、非理論的なものを否定する私の例外である。
友人達には少女の声について何も言っていない。
きっと、私のこの奇妙な暮らしを羨ましがり、家に遊びに来る事だろう。
声もそれをよしとしないだろうし、何より私自身も紹介する事に気が進まない。
気が進まない事には、了然とした意味もない。
もしかすると私自身による非科学的事象の肯定を内心で嫌っているのかも知れない。
或いは、家の敷居を何人にも跨らせたくないからなのかも知れない。
私自身の腹の内が覗き込めなくて、私は胸の火が燻らせた。
鼻にまで焦げ付いた匂いが漂ってくるかのようだった。
目にまで黒い煙が見えてくるようだった。

「あ」

ここで気付く。私は食卓の椅子から離れると、オーブン・トースターの前に駆け寄った。
なんということでしょう。単なる見切り品だったブレッドが息を呑む程見事な消し炭に!
やったね。すごいね。



「ドッペルさん、ねぇ」

結局、声を出したのは先程の夕飯の時間以来だった。
ベッドに身を投げ出し思いに耽るその内容は、上司と今日した会話である。
それも見たら死ぬタイプの存在ではなく、最近流行の淫魔である。
よくもまぁ、あの上司も揚々とこんな痴話が出来たものだと思わざるを得ない。
最近の魔法生物というのは、どうにもこうにも痴話に発展するものばかりである。
そこで思い及ぶ。
そもそもこの都市伝説は、元祖ドッペルゲンガーと、痴女が合一した話ではなかろうか。
人間以外の陸上生物は言うに及ばず、海にですら性的快感を楽しむ生命は存在する。
だから、通り魔地味た痴女の存在についてまで私が否定する権利など無い。

寝室を始めとして、私の家は外灯以外の全ての電気を消していた。
窓から入ってくる明かりは仄かであり、辛うじて眺められる月も細かった。
耳を澄ませば、馬車や油走車、電動車などの音が聞こえてくる。
時たま、酔った人間が笑い叫ぶ声や猫の喧嘩も耳に流れ込む。
しかし少女の声は一切として聞き取れない。

「返事、してくれないか」

私は呟いた。
少女が居るとするならば、例え囁き声でも届いていると、私は確信していた。
声の主は、子供染みていると言うよりも、やはり本当に子供なのだと思う。
そんな相手は、未だ
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