玄関が異様なまでに水浸しであった為、異変に対しては直ぐさま察知した。
朝霧などの水では此処迄湿らない上に、石畳の下から湧き出した様な濡れ方だった事から、原因究明は容易であった。
「まさか、昨日の魔物か」
ひとりごちたわたしは嫌な解答と間違いのない予感に急かされつつも、慎重に家の扉へと歩み寄る。家中にいる存在を確認したいところであるが、その正体の居場所次第では逃げようにも捕らえようにも、手段が何一つとして無いのだ。
深呼吸してからドアノブを捻って戸を開くと、屋内が暗い事に気付く。今日に限ってカーテンを開け忘れて日課に出てしまったのか、それとも中に居るものがこれを望んだのか。兎に角屋内に光を加えようと陰鬱且つ緊迫な心持ちで中を覗き込むと、先ずは予想が的中した事を悔しく思った。この家は玄関口から段差と中戸を置いた地続きに居間があるのだが、そのほぼ中心に位置するところに水の塊が鎮座していたのだ。
無色透明の体躯に紺碧の核と赤い虹彩を持つスライムがへたりこんで出迎えてくるとは、まさか夢にも思うまい。外見的な特徴としては街で読んだ文献のどれにも当て嵌まることのない種類だが、スライムとは元来から亜種の多く発生する魔物であるため、この魔物自体には驚く必要は無い。が、しかし面倒な事になった。
「化物め」
「...」
魔物はわたしを見据えたまま、屈折した光を床に映す。床は波立ち、夜見るならば綺麗と思えただろう模様を描き出した。ただ、魔物本体については黙りこくった侭で落ち着き払い、表情すら伺い知る事が出来無い。そもそも屋内の暗さからして、顔が恐ろしく見え難い。つまり、何をしてくるかの一挙手一投足一動作すら捉えられない。愚直なものならば此の侭襲いに来るだろう。搦め手を得手とするものは、床下から組織を這わせて捕まえるだろう。場合によっては、無害をアピールして近づく事も考えられる。あの魔物の知能がどの程度か判ったならば行動範囲も絞められるのだが、やはりそう簡単にはいかない。
倒す方法を考えるにしても、川に近いこの場所では元より地の利が悪すぎる。土地が魔物に味方してしまい、所作にスピードが加わってしまう事だろう。そして更に、再生力についても恐れられるだけ恐れ、備えられるだけ備えておいた事に越し様も無い。例えばあの核は昨日見たとき、乾ききって硬くなっていた筈だ。それでは何故水分を吸収して、体躯を復元させているのか。どこから力の源を得ているのか。
これに対して、確実性のある回答をするだけならば簡単だ。
ああこれだから水の化生は面倒臭い。
単純にも、雨の湿気と夜霧朝露だけで復活してしまったのだ。
「...こんちゎ」
水魔が喋る。
幼子と鈴に似た声だ。
「出て行け。おまえに用は無い」
「...やだ」
受け答えを見るに、存外知能は低いらしい。
例外も多くあるが、スライムというものは体色の濃い個体ほど知能が高い傾向にある。しかも、そういった個体は人間の侵蝕、魔物へと変貌させることも得意としているという。たかがスライムとは言い難く、その危険度は対象が男であろうが女であろうが低くない事に違いない。魔物という存在は前提として人間を脅かすものであるという点から、危険非ざる存在な訳が無いのだ。
「とりあえず、外に出ろ」
「...わかた」
判断基準の理解に苦しむところはあるが、随分と聞き分けの良いお悧巧な魔物だ。これが小さな子供の形をしてさえいれば、思わず頭を撫でたくなる程である。その点では目の前の水魔が水魔であってよかったと思わなくも無い。何せ、魔物は人間の庇護欲をも手玉に取ってしまう。
わたしは家から水妖を誘き寄せ、扉を抜けて草地を這う標的に狙いを定める。腰の革ベルトに括りつけた布袋の口を改めて緩め、川端に散布するよりも一握多目に塩を持つ。そして、家前の太い切株の台まで誘導した後、思い切り塩を撒く。
塩には様々な意味と用途があり、わたしの蔵にある塩は、その大半を厄除けとして使用している。厄除けとはつまり結界の構成であるのだが、実際に魔物に直接振り掛けても効果がある。大蛞蝓が多く生息しているこの地域では、塩による半無力化の効果は絶大なのだ。また、水分を多く含まない魔物には直接的振り掛けたところで効果を望めないこの塩だが、その時の為の御信用程度のものは携帯している。とりあえず、これは一般的な粘性タイプの魔物を退散させた実績のある対処法だった。
「...あ」
スライムは塩を全身に受けると、進行を止めて震えだした。
小刻みにか細い声を上げるその様子は、威嚇行為ではないのであると判る。一見すると快感に犯されている状態として捉えられ、魔物に慣れた者であればきっと酷く官能的に見えるものなのであろう雰囲気があった。わたしにとって
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