わたしが浅い眠りから醒めた頃には、昨夕から降り続く雨も疾うに弱まっていた。ランプに光を入れて掛け時計を確認すると、太陽が昇り始めるには未だ早く、月明かりも充分でない時間帯だ。カーテンによって外光を悉く遮っている分、この家内は外よりも暗く薄ら寒い。しんと張り詰めた空気の中で重い腰を折って起き上がり、寒気に満ち足りた部屋に身を曝すと、首の裏辺りが無性に痒い事に気付いた。どうやら虫か何かに噛まれたらしく、邪険に舌を打って左手で無造作に掻いた。首の痒みを削りながら欠伸を吐き、覚醒に程遠い頭を揺らしつつベッドから足を降ろすと、床が軋んで嫌な音を発てる。
首に爪を立てながら寝室を出てだらり歩き、いつ外れるか判らない階段を使って一階に降り、そのまま玄関に置いた桶を手に取り、外へと繋がる扉を開く。辺りはやはり暗いが、降り始めていた朝霧が足を濡らして朝の到来を否応無く知る。サンダルと足の間に水と草が這入ってくるがそれらを無視し、如何にも昔ながらあるような石積みの井戸の前に立つ。綱付きの井戸桶を中に放り入れて井戸水の撥音を確認すると、綱を戻して錆染みた滑車を回す。猫がガラス板を引っかいたような音が響き渡って身を硬くしつつも辛抱強く綱を引き続け、やっとのことで井戸水を手に入れる。
井戸水を汲み上げ終わるとそそくさと帰宅してその一部を薬缶に移し、火に掛ける。水が沸くまでの間に洗面場で顔を洗い、口を漱ぎ、髭を剃る。端にヒビが入り上部には蜘蛛の巣も張っている鏡に対して改めて向き合うと、慢性的に隈深い顔と目が合った。笑顔を取り繕おうと頑張ってみるも、歪な表情にしかならない。笑っているよりもずっと顔に合う溜息を吐くと、耳が冴えて薬缶の蓋がガタつき、湯の沸騰が告げられていると知る。わたしは少し早足になって調理場へ戻り、中身の少しを側に置いていたマグカップに移した。
続いて背後のテーブルからオレンジピールのジャムが入った小瓶を取り、思い切り捻って開ける。ジャムを白湯の中に溶かし混ぜつつ、その小物なり刃物なりで埋まったテーブルの隅にマグカップを置くと、棚の下段から乾パンを取り出しに行く。鼠に食い散らかされていない袋を取り出して開き、袋から直接口へと放りつつ椅子に座る。それからは口の渇きに応じてジャムティーを飲み、朝食を済ました。
乾パンの袋をごみ箱に捨ててからカーテンを開くと、日が昇っていると知る。
夜明けとは、わたしにとって日課を始める合図である。
わたしは肩を回すと、壁に掛かっていたいくつかの布袋のうちの一提げ持ち出し、裏口近くの地下へと通じる階段から蔵に移動する。頑丈な蔵の中には塩が保管されており、袋の中に塩を詰める。大小様々なパックが付いている太い革ベルトを腰に巻いてから布袋をベルトに取り付け、上着を羽織ってから靴下を履き、草臥れた靴を履いて、川に赴く。
明るい日差しに包まれた川縁は陰湿な家の中よりもずっと健康的で、しかも田舎も田舎のこの土地は空気ひとつについても都市のそれより数段うまい。しかしながら、誇ることのできるものといえば一見長閑に見える自然に溢れた土地柄やこの空気程度であるのだから、どうにもひとにはお勧め出来ない場所だった。
そんな朝の冷たい空気を堪能しつつ、わたしは川端に沿って上流へ向かいながら塩を散布して進む。この往復に3,4刻を要する散歩染みた日課は、1日の間に朝夕二回をセットにして何年も続けているわたしの仕事のひとつである。あまり誇らしくも無いものの、お陰様で独歩独力のみで草の生えない歩道ができてしまった。
また、この一体では珍しく大規模な嵐がつい先日に遭ったばかりだ。おんぼろな我が家の補修も当然緊急を要したが、それ以上に瀕していたのはこの結界警備などと称される職務であった。家を直すよりも早々至急に1日一杯を使って塩をリベラインへ敷きなおし、それから幾度と無く丹念な結界の綻びを探しては補修を行った。だからこそ、ここのところこの日課においては大抵異変を見つける事が無かった。今朝も日頃と同様特別な事象が起きていないと確認しながら、山の色に季節の移ろいに思いを馳せつつ自宅に戻るのだ。
例外を除きさえするのなら、ほぼ万事が平穏無事に限るものだろう。
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