カルテ2

すこし湿った空気に混じって消毒液の匂いがする。
(……病院……?)
真っ暗な視界の中、匂いだけで判ずるならそうだが、どこか違う気もする。
閉じていた瞼を開け視界に映ったのは、冷たい印象の部屋だった。
右手に金属製の頑丈そうな扉があり、目の前の壁は一面ガラス張り。
それ以外は天井も壁もコンクリートがほとんどむき出しで、床には黒いビニール製のマットが敷き詰められている。天井にある蛍光灯が唯一の明かりだったが、その光量は頼りなくむしろ部屋の冷たさを強調しているようだ。
(どこだろう……ここ……)
病院の一室というより牢獄のような部屋をぼんやりと眺める。そこで自分の意識にまとわりつく独特の浮遊感に気付く。この感覚は……
(ああ、夢だ……)
夢だとしたら自分はいつ眠ったのだろう?
頭の中を探るように思考を巡らせるが思い出せない。言い知れぬ不安を感じ不気味な部屋から出ようと歩を進めるが
ガチン
いつの間にか手足には枷がはめられ、鎖で後ろの壁に固定されていた。肌に染みるような冷たさは異様な現実味を帯びている。
ならば誰かを呼ぼうと顔を上げると、ちょうど目の前に人の姿が見えた。
灰色の、大きすぎるローブを着て、鎖につながれている幼い少年。
先ほどまでガラスだと思っていたものが鏡に変わり、史郎自身の姿を映していた。精気のない虚ろな目がまっすぐに見返してくる。
(あ……)
ただの夢だと思っていたものに別の感覚と、予感が付け足された。
これは、悪夢だ。
先ほどから感じていた不安が確信に変わる。
ガチャン
重苦しい音と共に金属製の扉が開き、そこから一人の女性が現れた。その姿は墨で塗ったように黒く塗りつぶされている。だが、女性だと史郎には分かった。
(……これは夢じゃない……!)
シルエットのような女性の姿を見た瞬間に、史郎の記憶は蘇った。そう、記憶だ。
今の自分が見ているのは確かに夢だが、これから起こることは空想ではなく、かつて史郎が経験した過去だ。
耐えがたいがゆえに心の奥に沈んだ、罪深き過去。
(いやだ……!)
まっすぐに史郎に向かってくる女性(あのひと)。
これから起こる惨劇。
次々に思い出される忌まわしい映像と感覚、感触。
それから逃れようと史郎は必死にもがいた。
枷が手足に食い込むのも構わずにもがき続ける。
……っ!
…っ!

「あああぁ!」
自身の喉から上がる叫び声と共に目が覚めた。
急激に意識が引き戻され
「……あ……」
絶句した。
喜色満面で覗き込んでくる女性の顔。
体中に巻き付き体を吊り上げている触手、肌に染み込み続ける粘液。
自分の脱力した手足、敏感になり過ぎた全身の感覚。
気絶前の記憶が未だにぼやけているが、目の前の状況は理解できた。
拘束されている史郎の手が固く握られる。
「……まっ!…ぐう!むぅ……!」
「アア…ムゥゥ……!」
何かを言おうとした少年の口にローパーの唇が覆いかぶさった。舌が侵入し、無遠慮に狭い口内を蹂躙し音を立てて唾液をすすり始める。
触手は史郎の上半身をらせん状に擦りあげ極度に敏感になった柔肌を紅色に染め上げていく。すでに史郎から得た精により、すべての触手が再生したようだ。
腰から下は無事なことと、にやついた表情からして、久々の食事をじっくりと味わうつもりなのだろう。

そして、史郎は見た。
極至近距離から覗き込むローパーの茶色の瞳に宿ったおびただしいほどの情欲と、それとは別の微かな光。
その光には見覚えがある。
(あの時……あのひとも……)

プジュン
侵入していた舌が引き抜かれ
「かほっ…けほ…!」
解放された史郎がせき込む。

史郎の様子を気にも留めず、ローパーは口の中の唾液をゆっくりと味わい、嚥下する。
直後にぶるぶると震え、ローパーの表情が一変した。
頬が上気し目が輝き、両手で蕩けそうな頬を押さえて目を見張っている。少年の精はそれほどまでに美味に感じられたらしい。

史郎がようやく咳をおさめて顔を上げると視線が合った。
上気した色の頬、その上にある大きな目は完全にすわっている。
その瞳にはもう、先ほど見た光は見出せない。
「……」
史郎は体の力を抜き、ただ静かにその目を見返した。
ひとたび自分の精を味わった魔物がどうなるのか、これから何が起こるのか。

分かっていたはずだ。
覚悟も決めていたはずだ。

なにせ、
<江水史郎>は、そういうふうに<造られた>のだから。

それでも幼い胸には、どす黒いものが広がる。
怒り、などというものではない。
それは憎悪だ。
果ての見えない憎悪が湧きあがってくる。

「……っ!?」

胸の内に気を取られていた史郎だったが、
急回転した視界と背中に受けた衝撃とに息が詰まり現実へと引き戻された。
ローパーが史郎を地面に叩きつけ、4本の触手が手足の全てを拘束している。

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