別の部屋

「……なんだ、ここは?」
被検体の回収場所で突然現れた魔物、羽倉の転送魔術によって教団の男が送り込まれた場所は、静波病院内の一室。
結界の効果で誰の目にも止まることのない部屋は、院内にいくつか点在しており、静波病院が<妙に迷いやすい>建物と呼ばれる原因となっていた。
無論、その主犯格は羽倉であり、謂れのない批判を浴びる当時の建築担当者にとってはいい迷惑である。
「まあ、報酬は破格に支払ったし、色々と口利きもしているから……」
とは、名探偵(史郎)に真実を暴かれた容疑者(羽倉)の供述である。

部屋を見回す男の視線に映るのは、白色の照明で照らされている、白い床と壁。天井で小さな駆動音を響かせている換気口が一つ。
それだけだった。
窓はおろか、扉さえ見当たらない異様な部屋に男は独り立っている。
「おいっ!!」
声を張りげても反応はなく、はじめは恐る恐る壁を探り、次第に苛立ちを込めて拳を叩きつけても何の手ごたえもない。
無力にも軟禁された事実を確かめるその行為と
「貴様ぁ!いったい何のつもりだぁ!!」
出口のない空間に響く自身の神経質な声がむしろ、無為な時間と共に男の精神を擦り減らしていく。唯一の出入り手段であろう転送魔術を使おうにも杖は羽倉に破壊され、術式を描き出す道具もない。
誰もおらず何もない部屋の中を歩き回る男の顔が徐々に赤面し、息も不規則に荒くなり始めた時。
「!」
男の眼前にある床の一部が青白い光を発し始めた。
急速に膨れ上がった光は一つの小さな人影を生み落として消えていく。
中から現れたのは、逃げた被検体と戦っていた少年、史郎だった。
「お前は!」
一瞬、警戒した表情を浮かべた男はしかし
「……何のつもりかね?」
史郎の姿を認めるとすぐに薄ら笑いを浮かべ始める。
「かふ……」
少年は、その場にしゃがみこんだまま小さく咳込んだ。
黒く薄汚れた病院着と対照的に、顔色は蒼白で呼吸も弱々しい。両腕は力なく垂れ下がり、全身からも覇気は感じられず、一目見て分かるほどに衰弱している。魔物を相手にしていた際は驚異的な身体能力を見せていたが、反面、消耗も激しいと見える。おそらくこの場へ魔術で現れるだけでも相当な負担だったようだ。
どんなカラクリかは解らないが魔物に変じる力が使えない以上、体格差から考えても自分に危害を加えられる状態ではない。相手が非力だと判じた男は笑みを顔に張り付けたまま少年のもとに歩み寄る。
「私を閉じ込めてどういうつもりだ?」
先ほどまでの狼狽を早くも忘れ、少年を見下ろす男の態度は高慢に染まっている。
だが史郎は男の問いに答えず、顔を俯け男の足元を見ていた。
やがてその視線は右の靴先、擦ったような傷の上で止まる。
「……右足」
史郎は消え入るような声量でそう、呟いた。
「答えろ!」
小さな呟きは男の耳に届かず、眼下の少年に向けて苛立ち叫んだ。
だがその直後、男の視界が傾き始める。
「!?」
何が起きたかを理解する間もなく、
ドガッ
「ぐあっ!」
バランスを崩した男は硬質な床に尻を強かに打ち付けた。痛みに顔をしかめながら慌てて半身を起こす。
自身の足には出血も外傷も見当たらず安堵したものの
「なっ!!」
男の目線がある一点に止まり驚愕に見開かれた。
一見微動だにしていないように見える少年の右手、その人差し指の爪だけが人のものではなくなっていた。三日月を描いた長く鋭利な爪が、照明を受けて鈍く銀色に光っている。
「ひぃ!……!?」
あんなもので抉られれば堪ったものではない。
男は短い悲鳴を上げ、何より先に少年から離れようとした尻もちをついたまま後ずさる。しかし、その段になってようやく自身の右足首から先の感覚が失われてることに気付く。凍り付いたように動きを止めた男の眼前で、史郎の右手が動き始める。
まるで男に見せ付けるかのようにゆっくりと持ち上げられた爪が、
スゥー
男の右膝から上をザックリと切り裂くように横切った。
「ぎゃああ!!」
痛みはなく血も出ない。
だが、目の前で自分の足が切り裂かれる光景は凄まじい衝撃となって男の精神を襲い、悲鳴を上げずにはいられなかった。
魔物の攻撃は肉を傷つけることをしないが、精と呼ばれる力の源を絶つという。この少年が出現させている爪も同じ効力を持つらしく、実際、切られた膝から下の感覚は完全に失われていた。頭の片隅に浮きあがった知識が、先ほど転倒した原因をようやく理解させる。
まるで、麻酔を打たれ、生きたまま足をもがれていくかのような感覚と恐怖。
男の顔から血の気が引き、滝のような冷や汗が吹き出してくる。
その上、座り込んだことで図らずも少年の目を見た男は
「う……ア……」
ついに悲鳴さえも詰まらせた。
暗い。
ただ暗く、温度のない目線が向けられている。
全身が総毛立ち、氷に浸かったかのように
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