見慣れた景色が、住み慣れた村が燃え盛っている。
家屋という家屋に、吊り橋に、さらに付近の森に炎の脅威が広まっており、さながらこの光景は地獄絵図のようだ。
なのに、ここには血の匂いがしない。人の肌が焼けるような悪臭がない。そこには木が焼ける臭いと、むせ返るような、胸やけがする甘ったるい空気。
その空気が原因なのだろうか。あちこちから響いていた人の声は、いつしか全く別の物へと変わっていったような気がする。
そんな村の中を、一人の少女が走っていた。
脇目も振らず村を駆け抜ける彼女は、数時間前までは親しげに話をしていた筈の友人や知人を助けようなどとは一切考えなかった。いや、考えなかった筈はない。ただ単に彼女は、己にとって最も優先すべき存在の無事を確認するまでは、他に気を掛けている余裕がないだけなのだ。
夢中で走る少女の周囲には、白い絵の具で乱暴に塗りつぶされたような、不自然な空白があった。それも一つ、二つではなく、あちこちにその空白は見られた。
この光景は過去。少女の体験した出来事だ。少女が記憶の中から忘れてしまったもの、あるいは意図的に忘れようとしたものは、欠落としてこのような空白となる。何かきっかけがなければ、現在の少女がこの空白を取り戻す事はないだろう。
「 」
誰かの声が少女の耳に入るが、少女は振り返らない。
「 」
誰かの叫びが聞こえたが、少女は立ち止まらない。
まるで悪夢を振り切るように、必死の形相で少女は走っていた。
そして、住み慣れた自分の家に到着し、ドアを蹴り飛ばし、中に入る。そこには少女の父親が居て、無事に帰ってきた娘の姿を目にした瞬間慌てて駆け寄り、一緒に逃げよう、と言おうとした。
「 」
その時、彼の背後で窓ガラスがゆっくりと、それも外側から開かれていった。
父親は娘に対し、先に逃げろ、と言いつけて、かまどの横に立てかけていた火掻き棒を握りしめる。そして、窓を開けた張本人を迎撃しに突貫したのだ。
窓から緩慢な動作で、空白に塗りつぶされた『何か』が侵入してきて、彼の前にその姿を晒した。動きが鈍い今が好機、と父親は火掻き棒を振りかぶり、 そして、
「 」
叩き付けられる寸前に、棒は動きを失った。
少女から見た父親の背中は明らかに動揺しており、『何か』が自分の肩に手を通し、抱きしめられるような体勢になったとしても、目の前の現実を認められないような、そんな声を発していた。
何故君が、そんな言葉を、だ。返すように『何か』は、
「 」
父親にとっても、そして少女にとっても聞き覚えのある声で、言葉を作った。
身を震わせる父親はもはや動かず、火掻き棒を握りしめていた腕を緩め、取り落とす。からん、という金属の音が鳴り響くと同時に、少女はこの光景に対し腰を抜かしていた。
言葉にならない、嗚咽のような小さな悲鳴を上げる少女に対し、視線が向けられた。『何か』が、父親の身体越しに、少女の方を向いて、こう言った。
「――シャーラン」
・・・
その者の髪は、降り注いだばかりの雪のように白かった。
一遍の濁りもなく、至宝のごとく美しい白い髪を風にたなびかせていた。
その者の肌は、絹のようにきめ細かく、また白かった。
穢れを知らず、それ故に穢してしまいたくなるような、男の欲望を滾らせる艶やかさを持っていた。
その者の瞳は、宝石のように紅かった。
思わず引き込まれてしまうような透き通った美しさと、心を惑わせる悪魔のような淫靡さが同居しており、心の強い者ですら、見つめられるだけで息をする事すら忘れてしまうであろう。
「ふふっ♪ そろそろ時間ね」
その者の背には、白く美しい一対の翼が生えていた。
その者の頭から、黒く、捩れた悪魔のごとき一対の角が伸びていた。
その者の腰では、先端がハート型になっている細く伸びた尾が揺れていた。
「――さあ、始めましょうか?」
紅い唇はあらゆる男を虜にし、幼き身体と扇情的な服装が生み出すミスマッチは、保護欲と肉欲を同時に抱かせる。
リリム。
魔王の娘、と呼ばれる白く淫らな魔物が、今、アルカトラを眼下に納めていた。
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