ぼくには一つの日課がある。
「いらっしゃいませー」
扉を開けると聞こえてくる透き通った声。おかずが並んだショーケースの向こう側には、何人かの店員さんがそれぞれのお仕事に精を出している。朝早くということもあって、お店の中にお客さんの列ができていた。
家の近所のお弁当屋さん。今時珍しくチェーン店でない、個人経営のお店だ。セールの日程が書かれたチラシが近所に配られる程度には繁盛していて、和食が特に人気らしい。量の割にお値段もお手頃で、下手に学食や購買で済ませるよりもお腹やお財布に優しいのも魅力的だ。
だけど、ぼくがここに通う理由はそれだけじゃなかった。
「キミ、今日も来てくれたんだね
#9825;」
純白の割烹着に身を包み、三角巾で髪を束ねて後ろにまとめている――お店の制服の上からでも、ふっくらふくれた二つの耳と長い金色の尾はその存在を主張している。一糸の乱れもない二つの尻尾は、毛や埃を舞い散らすことなく優雅に揺れていた。
「ふふっ、おはよう
#9825;」
名前も知らない店員の稲荷のおねえさん。柔らかく包容力のある笑顔と、誰にでも温かく接する人柄のいい店員さんだ。魔物娘が日常に溶け込んだ今となっては珍しくないことで、ついでに言うのなら男の人が惹かれて結婚するのも当たり前の光景になっていた。
けれどこの稲荷のおねえさんにはそんな浮いた話がなくて。寿退社とかで頻繁に店員さんの顔ぶれが変わる中でも、おねえさんはいつもそこにいた。おねえさん目当てでここに通うお客さんも多いみたいで、実のところぼくもその一人だった。
「キミ、今日も来てくれたんだね。それじゃあ、今日もいつもの?」
「は、はい」
とろけるような甘い声。ただ注文を聞かれただけなのに、おねえさんの声を聞いただけで頭の奥がぼーっとして、どうしたらいいか分からなくなってしまう。お弁当を買いに来たはずなのに、どんなお弁当にしようかなんて考えさえ何処かへ飛んで行ってしまうくらいだ。
「ふーん……ねえ、ちょっと」
ぼくはそんな浮ついた状態だったので、ちょいちょいとおねえさんの手招きに釣られてしまい、誘われるまま顔を寄せてしまったのだ。……後ろでお客さんが待っていることも忘れて。
『キミ、いっつものり弁当だよねー……育ち盛りなんだから、もっともっとたくさん食べないと大きくなれないよ?』
『は、はぁ……』
ぼくのことを心配してくれているのは嬉しいのだけれど、おねえさんを見ているとどきどきして落ち着いてお弁当も頼めないんです、なんて本音を言える訳がなくて。ぼくは適当な返事しか返せなかった。
『だ・か・ら
#9825; そんなキミのためにおねえさんが一肌脱いじゃいまーす
#9825;』
そう言っておねえさんが差し出したのは何の変哲もない、いつもののり弁当の箱だった。でも、差し出されたそれは、手に取るといつもと違う重みがあって。
『これ、おねえさん特製のお稲荷弁当なの、みんなには内緒ね
#9825;』
お稲荷弁当とは、ぼくがいつも頼む質素なのり弁当とは違い、チラシやお店のポスターにも乗っている評判のお弁当なのだ。どうしてそんなことをしてくれるのか、考えても理由が分からなくて目をぱちくりさせてしまった。
『え、でも――』
『しーっ、静かに
#9825; バレちゃったらおねえさんが怒られちゃうよ? それに――』
スッ、と自然な動きでおねえさんが耳元に顔を近づけてくる。ぷるんと潤った唇が耳に触れるほどの距離まで近づいてきて。
『キミのために頑張って作ったんだよ? おねーさん、キミに食べてほしいな
#9825;』
はっとしておねえさんの方を向くと、カウンターの向こう側で悪戯っぽく唇を隠して笑っていた。
「どうしたの? いつものお弁当だよ?」
「はっ、はい!」
慌ててお財布を出すとお札で支払いを済ませる。おねえさんはのり弁当の分の代金を受け取って、ぼくの手を取ってお釣りを握らせてくれた。
「はーい、毎度ありがとう
#9825; 今日も元気に行ってらっしゃーい
#9825;」
何事もなかったかのような屈託のない笑顔に見送られて、ぼくは夢心地のまま送り出されるのだった。
§
そして、その日のお昼。
「わぁ……」
蓋を開けた僕を出迎えたのは、豪華な昼食だった。チラシやポスターの見本よりも盛られた色とりどりのおかずと、ふっくらした稲荷寿司。余った油揚げを使ったのだろうか、狐の顔を模した小さなおいなりさんも隣に並んでいた。
早速食べようと割り箸に手をつけたところで、挟まれた紙の存在に気づいた。細く折りたたまれたそれを広げてみると、そこには手書きでこう書かれていた。
――学校が終わったらお弁当の感想聞かせてほしいな、
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