冬の寒さも和らぎ、桜の蕾が色づき始める季節。
降り注ぐ暖かな日差しを浴びながら、私は一人帰路についていた。
彼女に近くの店までのお使いを頼まれたのである。
扉の隙間から紙切れを差し出した彼女に、一緒に行こう、と誘ったのだが。
「やだ。ぜったいにやだ」
「こんなにいい天気なのに勿体ない、散歩も楽しいよ?」
「今はデートしてる場合じゃないの! いいからさっさと行ってきてくれよな!」
頑として譲らなかったため、こうして一人寂しく歩いているのである。
こうしてうららかな陽気の中を手をつないで歩くのもいいものだと思うのだが、今の彼女にそんな仕打ちは耐え難かったのだろう。
「ま、いいさ」
別に今に始まったことではない。こうしてわがままを聞いてあげるのも彼氏の務めだ。
私は彼女――意地悪い笑みが似合うゲイザー――の姿を思い浮かべると、一人苦笑するのだった。
§
「ただいまー」
玄関から声をかけるも返事はない。
出迎えを期待していた訳ではないのだが、今朝からずっと部屋にこもりっきりなのは少し気になった。
一体何をしているのだろうかと思いつつ、彼女の部屋の前まで向かう。
実のところ、今朝から彼女とは一度も顔を合わせていない。
朝のあいさつをしようと扉に手をかけたら、入ってくるなと大きな声で止められてしまったのである。
いつも飄々とした態度でこちらをからかう彼女からはとても想像できない真剣な、少しかすれた声だった。
――頼むから、今はぜっったいに入ってくるなよ。約束だからな!
ケラケラ笑いながら冗談交じりの言葉を吐くことで私を閉口させることはあった。
黄金に輝く自慢の瞳で催眠をかけて私を意のままに操り、精神的に屈服させようとすることもあった。
そんな仕打ちを受けていても、私はこうして彼女と共に暮らしている。
なぜなら、私は彼女のことが大好きだからだ。
意地っ張りで、がさつで、わがままで、どうしようもない彼女を、世界で一番愛しているのだ。
だからこそ理解できる。
真摯な態度で告げた願いは、彼女がこれまでにないほど追い詰められていることを裏付ける証拠なのだと。
「頼まれたもの、買ってきたよー」
部屋の前で声をかけるも、やはり返事はない。
中から物音は聞こえてくるものの、詳細までは分からなかった。
今こうしている間にも、彼女は苦しんでいるのだろう。それを黙って見ていることはできないし、したくない。
とはいえ、彼女と交わした約束を理由なく破るのもまた問題である。
「……よし」
数分の熟考の末、私は扉を開けずに中の様子を探ってみることにした。
扉に耳を近づけて、神経を集中させる。
中で何をしているのか見ることが出来ない以上、他の感覚が頼りだ。
聴覚、嗅覚、そして第六感。今役に立ちそうな感覚はそれくらいだろうか。
流れてくる情報を逃がさないように、瞳を閉じて精神を集中させる。
部屋の前で耳を押し付けて待ち続けること数分。
扉の向こうからかすれた声が聞こえてきた。
§
「……あ……ふぁ……」
弱々しい声だった。
いつもの強気な彼女とはまるで別人のようだった。
「くぁ……んぁう……ふぇ……」
甘く切ない、何かを求めるような声が微かに聞こえる。
それに加えて、水が滴り落ちるような音も混じり始めた。
「はぁ……ふぇぁ…………ぁう……」
ポタポタという水音が止み、布か何かで乱雑に拭う音が聞こえてくる。
拭き取るのに手間がかかっているようで、しばらく音が止むことはなかった。
「ぐしゅ……やだぁ……やぁ……」
声に拒絶の色が混じり始めたころ、新たな情報が舞い込んでくる。
扉の隙間から甘ったるいような、それでいてツンとした酸味のある匂いが漂ってきたのだ。
「あ……また……ぅあぁぅ……くふぅ……はぁ……」
何の匂いだろうかと考える私だったが、その思考は徐々に大きくなりつつある彼女の声で中断されてしまった。
途切れ途切れの言葉の間に規則性を持つ荒い吐息が挟み込まれ、そこはかとない色気を感じる。
「っん……ぁむ……ぁふ……んくぁ……」
呼気を押さえようと口を閉ざしたのか、聞こえる声がくぐもったものに変わる。
しかし溢れる吐息を抑えることはできないようで、かえって艶めかしさが増したように思えた。
呼吸がひきつけを起こしたかのように荒くなって、そして――
「……ふぇっくし!」
§
「やっぱり花粉症、か」
扉から耳を離してそう呟き、買い物袋の中を覗く。
中には近所のドラッグストアから買ってきたマスクにティッシュ、目薬といった花粉対策のグッズが入っていた。
「ふぁ……ぁ……くしゅん!」
部屋の中から大きなくしゃみの音が
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