Now here 2 side A

「……あ、あ……」

 夢遊病者のように、俺は静かな街を歩く。
 飛んでいる姿が見つかったりしたら、流石にまずい。
 あいつに、つい最近まで同棲していたあいつに迷惑をかけてしまう。
 そんな最低限の理性が、働いていた。

「冷た……」

 ひたり、ひたり。
 靴も履かずに窓から出て行ったせいで、冷たいコンクリートの感触が素足に伝わってくる。
 ごつごつしたアスファルトの感触が、既に季節が秋になったことを伝えていた。
 あいつが居なくなった夏から、すでにそれだけの時がたっていたのだ。
 
「……」

 そうして、歩く事十数分。
 俺の前に、見慣れた建物があった。
 俺達二人で住んでいたアパート。
 ぼろくて、風呂トイレ共有で、床がギシギシ言っていて、壁だって薄っぺらい。そんな安いだけがとりえの場所。
 −−そして、あいつと、長い間暮らしていた場所。

 郵便受けの奥から合鍵を出して、ドアを開ける。
 ぎいいという音ともに扉が開くと、しばらく掃除していなかったせいか、むっとした埃がのどをちくちくと刺した。

 すべてが、あの時と変わらなかった。
 二人で読んだ台本の棚も、みすぼらしいちゃぶ台も、万年床になりかけた布団も、文句をいいながら立った台所も。全部。

 変わったのは……。

「−−」

 鏡に、俺の姿が映る。

 女になった、俺の姿が。
 長い髪が、白い肌が、切れ長の瞳が。
 魔物になった俺の姿が。
 ねじくれた角が、ハート型の尻尾が、黒い蝙蝠の羽根が。

 −−俺、だけだ

 俺は知らない。俺がこんな魔物になった理由なんて。
 たまたまおせっかいなリリムが居て、俺をアルプにしたこと。
 好きな人−−の精を取り込んで、完全に魔物になってしまったこと。
 そんな理由は、知らなかった。
 ただ、目の前に、俺がこうなってしまったという現実だけが重く圧し掛かっていた。

「こんな、もの……っ」

 右の翼に、指をかける。
 ざらざらとした、ゴムのような手触りだった。
 引っ張ると、感覚が繋がっていて、「これはおまえのものだ」と背中がずきりと痛む。

「っ……」

 それでも、力任せに、引きちぎるように。
 指で、引っ張っていく。
 痛い。
 翼からみりみりと、肉が裂けるような音がする。
 
「痛……っ」

 翼が裂けて、激痛が襲い掛かる。
 畳の上に真っ赤な血がぽたぽたと落ちる。

「……う、う」

 ただ、俺は畳の上に突っ伏して涙を流し続けた。


−−−


「……あ、れ?」

 それに気付いたのは、本当に偶然だった。
 俺達の数で居たアパートの周りには砂利が敷かれている。
 だから、誰かが近づいたりすれば、じゃり、じゃりという音が部屋に届く事もある。
 そして、今まさに、誰かが近づいている音が聞こえてきた。

 −−まさか

 ありえない想像をして、思わず窓の外の隙間から外をうかがう。
 窓の向こうには、あいつの姿が。
 寝巻きのまま、息をきらせてやってきた姿が映っていた。
 
 そんな、馬鹿な。
 俺は、いままで自分がここで暮らしているなんて、一度も言ったことがないはずなのに。
 身バレをすることなんて、喋った事もなかったのに、どうして。
 混乱したまま、窓から飛び立とうとする。
 逃げないと、どこでもいいから逃げないといけない。
 何故かは、わからないけれど。
  
「……痛っ」

 でも翼は、さっき怪我をしてしまって動かせない。
 扉から出るのも、もはや手遅れで絶対に見つかってしまう。

 ただ、布団があったからそれに包まるように俺は蹲った。
 それが、俺の唯一の抵抗だった。



−−−−−



「―ぇっ……!!」

 程なくして、ドアが開く音がした。
 動転して鍵を閉め忘れていたのだ。
 この程度の事も、俺は忘れてしまっていたのだ。

「……キミ、なのかい?」

 布団の向こうから、声が聞こえてくる。
 今、一番聞きたくて、聞きたくない声。

「どうして、こうなったのかは、知らないけど……キミ、だよね」
「……」

 布団が、めくられてしまう。
 頑張って掴んだけど、女の力じゃ到底、敵わない。
 光が、視界に満ちた。

「ーーバカ、そんなわけ、ねえだろ」

 ぎゅっと、目を閉じる。
 あいつの顔が、見たくなくて。
 見たら、きっと戻れないって分かるから。

「ありえねえ、よ。そんなの」
「……」

 ぶつぶつと、呪詛のように。
 あいつが、愛想をつかして、ここから出て行くのを期待して。
 あの時と同じ、それ以上に悲しい顔をして、俺を拒絶して欲しいと。

「いきなり、女になったり、かとおもったら、実は魔物になってたり!そんなの、ありえないだろっ!」
「……」
「もう、役者になれないって諦めてたのに!もう、顔も見ない
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