にわか雨にふられて


桐谷(きりや)という男は、自分の人生に退屈していた。
小学校から始まり中学、高校、大学。取り立てて成績が良くも悪くもなく、部活をやっても輪の中心に行けたことはない。いじめのあるような学校には一度もあたらなかったが、かと言って目立つ訳でもなく取り立てて心に残るような思い出もないまま全ての学校を卒業。恋人というものに恵まれたこともなく、友人とも学校を卒業すれば自然と疎遠な関係になっていく。敷かれたレールの上を歩いたままのような気分で何とか社会人として職に就き、誰に言われるまでもなく一人暮らしを始めて。
子供の頃夢見たヒーローとなる事も、女の子との甘酸っぱい恋模様もなかった、平凡なもの。
彼にとって、自分の人生とはそういうものなのだという認識だった。
退屈な日常を壊すものなどない、ドラマティックな出来事など起こらない。
そんな日常に不安を感じているのは確かだが、今更何かを変えようと動く気力はもう彼にはない。
偶に、予測しない出来事は起こることもあるが……しかしそれも、電車の外でにわか雨が急に降り出してしまったとか、その程度のものだ。
見慣れた定時上がりの暗い景色を映す窓には雨粒がどんどん張り付いて、電車の外でうるさい音を立て続けている。
変わらない日常に退屈を感じてはいても、にわか雨など自分にとっては濡れるだけで百害あって一利なしなのだ。
置き傘がなければ今頃濡れていたであろう事実に鬱陶しさを感じながら、桐谷は電車の窓から外を眺めてみた。
桐谷がいつも利用しているこの電車は道路よりもだいぶ高い所を走って居るため、窓からは辺りの景色を一望することができる。
景色からするとそろそろ自分の家の最寄り駅に着く時間だが、雲を見ても一向に止む気配はない。
幸いにも道路に水たまりが張っているわけではないようで、これなら走って帰れば濡れずには済みそうだ。
と、そこまで桐谷が考えを巡らせた時……視界の端に、奇妙な物を彼は捉えた。
そこは、人の影がない夜の公園。大きな木がある事以外、大した遊具もない目立たない公園であったのだが……その木の下に、女の影があったのだ。現代日本では珍しい、腰を帯で結んだ和服に身を包んだ姿。それだけならばまだ見逃してしまっていたかもしれないが、それ以上に女は奇妙な姿をしていた。
女は、傘もささずに全身がずぶ濡れになってしまった姿で佇んでいたのだ。
雨宿りしているだけなら、まだわからない事もない。しかし、外で降っている雨は確かにそれなりの水勢だが、短時間であそこまでずぶ濡れになるとは桐谷には思えなかった。
目を疑った桐谷はもう一度確認しようとするが、既に電車は公園よりも遥か遠く、いつも自分が降りる駅のホームへと差し掛かろうとしていた。
やがて電車のドアが開き、人の波に揉まれ桐谷は電車から外に出る。しかし桐谷の頭の中にはずっと、一瞬見ただけの女の姿が浮かび続けていた。
ひょっとしたら、自分は社会人としての生活で思っていた以上に疲労しているのかもしれない。それが原因で、雨で外が見えづらい窓ガラス越しというのもありずぶ濡れな姿に見間違えた……そう考えれば、あり得ない話ではない。
しかしその考えに、首を横に振る自分も胸中のどこかではいて。
もやもやとした気持ちを抱えたまま、足は家の逆方向……先程見えた公園の方へと、真っ直ぐに向かっていく。
もしいなければ見間違いだったということで諦めが付く話なのだ、と言い訳するかのように心の中で結論づけて。
桐谷は、未だ止まない雨の中傘を差して歩き出す。

程なくして彼は、公園の前に辿り着いて……大きな木の下で佇む、1人の女性を発見する。
雲で覆われて雨粒を降らし続ける空を仰ぐ、和服に身を包んだ女性。その全身からは、ぽたりぽたりと雨粒が滴り落ちていて……それは、間違いなく桐谷が電車から眺めた光景そのものであった。
しかしそれは、間近で見るだけで全く異なった印象を彼に与えてくる。
たおやかに流れる黒い髪、大和撫子と称賛したくなる程に整った顔立ち。湿った和服は肌に張り付き、公園の頼りない光源だけでも彼女の体の美しい線を浮かび上がらせる。
夜の闇の中にぼんやりと浮かび上がる虚空を見上げる彼女の姿は、どこにでもありそうな公園の中で幻想的なまでの美しさを誇っていた。
女と馴染みがない人生を送ってきたせいもあり、桐谷はゴクリと生唾を飲み込み……

「……綺麗だ」

そう、ぽつりと漏らしてしまった。発言するつもりがあったわけではなく、本当に無意識での事だった。
けれどその時、空を眺めていたはずの女と目が合う。女の方が、顔をこちらへと向けてきたのだ。
驚いた桐谷の顔を、女性はじっと見つめてくる。
穏やかな印象を与えてくる開ききっていない目蓋が、数回の瞬きをして……ことり、と彼女は不思議そうに首を傾げた。

「……っ!
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