雲霧涙嗚

 ……仙石楼……天崙山の中腹に位置する、かつての仙人たちの住処……
 かつて栄え、そして打ち捨てられ……また再び、僅かな住民が住み着き……そして再度、打ち捨てられようとしている場所。
 一度は崩れかけながらも、一人の男の手によって再建された門は閉じられることなく、ただ立ち尽くすかのように口を開けていた。それはまるで、主に捨て置かれた犬が座して待ち続けるような、不思議な郷愁を滲ませるように。

 そんな仙石楼の門に、薄い朝日の光が霧の中から差し込んだ時であった。

 唸り声が響く


 獣が苦悶に呻くように、しかしてその響きの中には悲痛が混じる。心を裂かれたかのような、屈辱と悲痛、混じるように吐き出される憤怒。

 それは、今まさに手負いの虎……獣たちが目を覚ました瞬間であった。


 怒号の如き、咆哮


 怒りに満ちた虎の叫びは、地を震わし、その身に受けた毒などまるで無いかのように雄々しく、猛々しいものであった。それに続くように、二匹の獣が叫ぶ。

 皆、怒りに満ちていた

 ファンジェンがその身に授けた毒、それは決して生半可なものではない。若くして秘術を修めた天賦の才を持つものが、練り上げた全てを注いで作り出した猛毒なのだ。その毒を解いたとしても、常人であれば死ぬその時まで苦しめられてしかるべきほどのものである。
 だが、タオフーたちもまた、常ならざるモノたちであった。
 その身に宿す尋常ならざる生命力、そして怒りに満ちた魔獣の激情……それをファンジェンは見誤っていた。三日、二日は目覚めぬと思っていたものの、タオフーたちは僅か一晩の眠りでその身を起こす。
 「がっ……! ……ぐっ! ……おのれ……っ!」
 苦し気に、荒い息を吐きながらも身を起こし、咆哮を終えたタオフーは突っ伏すようにその身を床に落とす。
 霞むように揺らぐ視界を払うように、今ひとたび全身に力を入れ、その身を奮い立たせ……しっかりとその両足で立つ。じくじくと未だに体を蝕む毒が痛みと嘔吐を誘うも、ぐっと力を込め、抑えつけるようにタオフーは息を吐く。
 「……してやられたな」
 忌々し気に顔を歪めるタオフーの脇で、ヘイランも同じように苦虫を食んだ表情で呟く。じっとりと汗がへばりつき、髪を振り乱した姿は堪え難い怒りと殺意の蒼白さも合わさりぞっとするような妖美を纏わせている。
 そして、ヘイランの横ではフオインが床に突っ伏し、その身を燃やしながら涙を流していた。その炎は蒼く、白く、這いまわるように揺らぐ。小さく口から漏れる嗚咽は、年端もいかぬ少女のものであり、口惜しさの発露でもある。

 フオインは油断していたのだ。

 勝てると

 炎を使わずとも、愛兄から教わった武と、己の速さ、技術を以てすればファンジェン含め、奴らに勝てると。

 だが、結果は……相手の手の内を読み切れず……ファンジェンの黒髪に絡め捕られ、無様にも打ち据えられ……タオフーに助けられてもなお……無惨にも毒を盛られ地を舐めることになってしまった。
 たかが人、そう侮ったが故の結果。かつてそれは己がフオジンであった頃、ティエンを前にして学んだことではなかったのだろうか。

 悔しい

 ただ、ひたすらにフオインは嘆く。


 「ピ ピギ……」
 揺らぎ立つような殺気を放つ魔獣たちに、恐る恐ると言った様子で粘性のナオが近づく。その触手には桶と三つの杯が握られ、桶には水が満たされていた。主が去ってから暫く、ナオは主の言いつけを守り、タオフーたちが目覚めるまでの……苦しみに呻く夜の間、その汗を拭い体を冷やさぬようにと幾つかの襤褸布を集め、それを被せるなど甲斐甲斐しく世話に奔走していたのである。

 「よこせ……」
 差し出された杯を引っ掴むように、タオフーはナオの触手から取ると、桶から水を掬い一口飲む。
 冷たい、朝霧にも似た味が口の中に広がり、怒りに震え熱に浮かされた頭を鎮めるかのようであった。

 暫し、仰ぐように杯を傾けた後……うなだれるようにして深いため息を吐く。

 「取り戻すぞ」
 決意に満ちた、一声。

 その目は鋭く、すでに去った者たちを見据える。

 「ああ」

 決して逃がさず

 「……起きろ、鼠 鳴くに飽いたぞ」

 決して許さず

 「……許さねえ」

 決して返さず


 ―畜生と云うなら見せてくれる、我ら獣の貪欲を―


 一度喰ろうたその獲物、手放すことはないと知れ












 曇天、雷鳴が山中に響き渡る。

 ファンジェンの門弟が一人、不安げに空を見上げていた。
 霧深き山谷に連なる霊峰、その霧は濃く、冷たく立ち込めている。日は翳り、ゆっくりと薄闇が滲みだしつつあった。
 「先ほどまで晴れていたというのに……」
 誰ともなく、そう呟く。
 だが、それは
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