お隣リリムさん

お引越しのマナーって、なんだっけ?

インターネットでそんなことを検索し始めたのは、段ボールを三つひっくり返した昼下がりだった。
じーわじーわとセミの鳴き声はアスファルトを焦がす音にも聞こえる、そんな真夏日。

気になりだしたらどうにも作業に手が付かず、そんなこんなで30分。
いの一番に組み立てた扇風機を傍目に、うぅむと首を傾げる。
引っ越しソバとか言われても、そんなもの生憎と一個もないんですがそれは。

「それくらい教えといてくれよ母さん……」

理不尽に愚痴ってみても、じーわじーわとしか応えはなかった。
それもそのはず、今頃母はバングラデシュである。
控えめに言って、先行きが不安になった。



事の始まりは二週間前の夕食だった。
いつも通りの食卓、献立はムサカとサラダ、ついでに冷ややっこと今でも覚えている。
もともと家内でも口数の少ない僕は、もそもそと黙ってサニーレタスを咀嚼していた。
そんな夕食をみんなで囲っていると、突然に母が言った。

「実はお父さんの海外赴任が決まったの」

サニーレタスを思わず噴きそうになった。

「…………お、沖ノ鳥島?」
「あんな更地でお父さんどう働くのよ。海外って言ってるでしょ?」

どうやら冗談ではないらしい。
というか、当の本人である父はなにを呑気に晩酌してるのか。

「いや、あの、僕海外とか普通に嫌なんだけど……」
「あなたくらいの歳だと意味もなく海外に行きたがりそうなものなのに」
「僕の英語の成績が致命的なの母さん知ってるでしょ……」
「大丈夫よ、公用語は英語じゃなくてベンガル語だから」
「なにそのベンガルトラと喋れそうな未知の言語……」

父はそのベンガル語とやらを喋れるのか……。
珍妙なものを見るような視線を送ると、なぜか照れたように頭を掻く父。
違う、そうじゃない。

「それで、一緒に来る? もちろん私はお父さんと一緒に行くけど……」
「えぇ、何さ? 一人暮らしって選択肢もあるなら断然そっちだけど……」

おい、露骨に肩を落とすな、しょんぼりんとかあざとく呟くな父。
なんか謎の罪悪感が湧いてくるから。

「あら残念、でもそれならそれで条件があるの」
「ここを通りたくば私を倒していけ的な?」
「DVな発想止めなさい。いや、いまの高校転校してもらいたいのよ」
「は?」

にっこり笑って言うことじゃないだろう。
何故かと問えば、いまの高校に近いアパートが一件も空いてないらしい。
あと単純に、僕の生活能力を危惧して身内の近所に住まわせたいとか。

「まぁ、ぶっちゃけ別にいいけどさぁ」

そんなこんなで慌ただしく、転校が決まったのが一週間前。
時期が時期なせいか、仲良くしてくれた友だちにも言いそびれてあれよあれよとお引越し。
幸いにも学区は近いし、別に今生の別れというわけでもあるまい。

両親が帰ってくるときは、母方の祖父母の家に住むらしい。
いつ帰って来るか分からないが話を通していると言っていたが、それをOKする祖父母も祖父母。
祖父は父の肩をバシバシ叩いて激励してたし、祖母は母にお土産を頼んでいた。
この大らかさがきっと母に遺伝したんだろうなと、なんとなく無意味に納得した。
でもいつでも頼ってねって言ってくれたのは嬉しかったです。



それはそれとして、問題は現状である。
お引越しの挨拶って、引っ越しソバ以外にないのか。
型遅れのスマートフォンをカチカチいじるも、どれもこれも微妙なラインである。
強いてまともにこなせそうなものとして、引っ越しタオルだろうか。

父が会社からもらった『粗品』と大きく刻まれたタオルを片手に立ち上がる。
幸いにも僕の部屋は角部屋だから、挨拶する相手も一人だ。
そんなにハードルの高い話ではない。

「よっこいせ、っと」

サンダルを履いて外へ出ると、むわりとした暑さと耳鳴りするほどのセミの声が鬱陶しい。
勝手で悪いけど、さっさと済ませてしまおう。
ぴんぽーん、と隣の部屋のインターホンを鳴らす。



……………………。



おや、返事がない。もしやいらっしゃらないのだろうか。
さすがに郵便受けに突っ込むわけにもいかないし、時間を改めるかと踵を返した。
その時だった。

『どちら様ですか?』

呼び止めるかのような声にぎくりと振返る。
インターホンをよく見るとカメラがついていて、キィィ、と機械的に鳴っている。

「え、あ、ど、どうもこんにちは……! と、隣ににゅ、入居? したので挨拶に……」

いかん。変に大人ぶろうとしたせいか言葉遣いが変だ。
これやっちまったなぁ、と頭を掻いていると、ガチャリと鍵の外れる音がした。

「これは、ご丁寧にどうもありがとうございます……」

現れたのは、絹のような白髪に黒いツノの美人さん、というかリリムだった。
ジーパンに
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