イイハナシダッタノニナー

小さな病室の窓際に、ふわりとカーテンがなびく。

「………………」

ぶかぶかの病衣の胸元をはだけて、少年はパラパラと週刊誌をめくる。
彼の名は有栖川 和歩。つい最近この病室で10歳を迎えた最年少の患者である。
そんな彼の脇のスタンドテーブルで、充電器に繋がれたスマートフォンがヴヴっと震えた。

『アァリスゥ……、起きてンだろォ?』

安っぽいスピーカーのせいでどうにもチープな禍々しい声が、病室に虚しく響いた。
その声に、和歩は微妙な面持ちになる。
会いたかったような会いたくなかったような、でもどちらかと言えば会いたかったような。
要するに自覚のないマゾい子が久しぶりに仲のいいイジメっ子に会うようなそんな心境。

「おはようチェシャ猫さん。今日は早いね」
『オイオイ、人を、いやさ猫を眠りネズミかにゃにかと勘違いしてにゃいかアリスゥ? 毎日毎日、昼夜問わずに性夜の如く盛る春の猫じゃあるめェし、オレサマだって早起きぐらいすらァにゃ
#9829;』
「………………そ、そう。あはは」

相変わらずこの人なに言ってるのか分からないんだよなぁ、と和歩は小さな苦笑で誤魔化す。
その様子にこりた様子もなくちぇー、と液晶の彼女は相変わらずニヤニヤ笑いだ。
紫を基調としたドレスを身にまとい、いやらしく微笑むその娘の頭で猫耳が揺れる。
彼女の言を信ずれば、かの有名な不思議の国のアリスのチェシャ猫らしい。

「……というか、ぼくはカズホって名前があるって何回言えば……」
『きひひひひっ、細けェこと気にすンにゃ女々しいぞアリスゥ?』
「あぁ、うん。もうアリスでも何でもいいです、はい」

諦めたように週刊誌をパタンと閉じ、和歩はベッドにもたれたままスマートフォンに手を伸ばす。
爪が充電コードにかすりはするが、どうにもギリギリ届かない。
その様子に、液晶に映ったチェシャ猫はニヤニヤ笑いながら頑張れ頑張れと他人事だ。

「よっ、くっ……」
『フレー、フレー、ア・リ・ス♪ 頑張れ頑張れア・リ・ス♪』

イラッと来たのは内緒である。
が、そのエールが効いたかはさておいて指先がコードに引っかかった。

『を? お? にゃ?』

ぐらっ、と。
勢い余って、スマートフォンがスタンドテーブルから落ちたが。

ビィィィン……。

『にゃ……にゃンてことすンだコラァ!? めっちゃビビったじゃにゃいかァ!?』

慌ててコードを掴んだのが幸いしたか、なんとかスマートフォンは重力にそそのかされなかった。
液晶で冷や汗をかいたチェシャ猫が喚いているが、和歩も同じような心境である。
ライフラインとまでは言わないが、スマートフォンが壊れるのは勘弁願いたい。

「せ、セーフ」
『うおえええええ! 早く上げろアリス! プラプラ揺れて気持ち悪ィ!』
「はいはい……」

人の気も知らずに文句たらたらのチェシャ猫に、和歩はコードを手繰り寄せる。
手元まで持ってきたときには、液晶に映った彼女は息も絶え絶えに口元を押さえていた。
ノット、ゲロイン。

「大丈夫?」
『……トランプで遊んでくれたら大丈夫かもしれにゃい☆』
「余裕じゃん……」

猫を被っていたようで、きゃるんっとエフェクトを光らせるチェシャ猫。
和歩はどっと疲れたかのように苦笑いを零し、拙くスマートフォンを操作した。
起動しっぱなしのマモノタイムオンライン、その『遊ぶ』コマンドをタッチする。



こんな風に、さも当たり前のようにチェシャ猫が和歩に話しかけたのは四ヵ月前の事だった。
小学校の下校中にトラックにぶち当たり、まるまる一ヶ月の昏睡。
流れるように入院し、流れるように薄っぺらい見舞いがきて。
そして誰も来なくなったある日のことに、さっきみたいにへらっと話しかけてきたのだ。

『シケたツラしてンにゃァ、アァリスゥ? 病は気からってンだろォ、もっとアゲてこうぜェ?』

マモノタイムオンラインで、ちょうどパートナーに設定していたチェシャ猫が。
最初こそ、ヤンキーじみた口調に委縮していたが、今となっては慣れたものである。
ときどき国語辞典にも載っていない言葉を吐いたり、人の話を聞かないところもある。
でも、和歩にとっては自分を痛ましく思う両親よりも親しみやすい女の子だった。

「……あの、チェシャ猫さん」

そして、話は戻る。
液晶に浮かんだ二枚のカード。
その一枚を取るんじゃないと言わんばかりに放さないチェシャ猫に、和歩が抗議の声をあげる。

『こ、こっちはババじゃにゃいぜ? ホラホラ、あっち取れよ、あっち♪』
「いやーぼくは残念ながらこっちが欲しいなー(棒」
『うにゃあああ! と、取るにゃ取るにゃああ……!』

液晶を力強く押す和歩に、ギリギリと力の限りカードを押さえるチェシャ猫。
一見して年上の彼女も、こう見えて幼稚である。


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