――君の白き頬に赤い椿添える――
ム\マ
ヒト夢
ガタン と壁の響く音で私は目を覚ました。
何事かと思い、耳を澄ませば安アパートのベニヤを張り付けただけの様な壁の向こうからは男女の叫び合う様な声が聞こえる。
ああ、またか。
と私はため息を吐き、頭脳の覚醒と共に鮮明さを増していく現実の声から耳を塞ごうと試みた。
しばらくすれば隣の若夫婦の喧嘩は何らかの形で終わりを迎えたらしく、私は静かになった自室で、ゆっくりと身体を起こした。
時計を見れば、起きるにはまだ早く、寝直すにはもう遅い時間である。
私は上司からの説教を受ける可能性と、駅前の珈琲チェーンで注文するブレンドコーヒーの値段とを天秤にのせる。
僅かな差で選び取った珈琲を買うために私は身体を起こし、8畳程の冷たいフローリングの上を歩いて洗面所へと向かう。
相も変わらず冴えない自分の顔は、あつらえた様に寝癖が似合う。
いや。そもそも、寝ぐせというのは寝ている時に頭と枕によって挟まれ、湾曲した髪の毛の繊維質が湿気により緩み、それが乾く事によってありもしない形へと固定される現象だ。
それを“あつらえた様に”と比喩することにも問題があるようにも思えるが、冴えない自分の様な20代半ばの青年がそれを問題視した所で、その事が社会へと及ぼしうる影響を考えるとそれこそ“あつらえられた寝ぐせ”程もどうでもいい話であるので、ここは捨て置く事にしよう。
兎にも角にも、隣の部屋の住人から押し付けられたささやかで押し付けがましいプレゼントとも取る事が出来なくもない40分間を有意に使うべく、私はカルキの味がする水道水で歯を磨いて口をゆすぎ、軽く顔を洗って、寝癖を直すと、1年前にはまっさらだった所々シワの抜けないよれたスーツを身につけ、家賃が1万円札を片手の指の数ほど並べた額で事足りる安アパートを後にした。
会社のある都会と呼べなくもないオフィス街に比べ幾分も空が広く見える片田舎の住宅街の中にある下り坂を私は転がり落ち続けるフンコロガシの糞の様に無気力に歩き、いつの間にやら大きく巻き込んでしまった日ごろのストレスを、今朝方新たにくっ付けてしまった眠気と共に引っぺがすべく、香ばしく誘い込むかのような香りのする珈琲チェーンへと向かって行った。
途中通り過ぎたコンビニでは、よく言えば人の良さそうな、悪く言えば色々と抜け落ちている見慣れた店員がレジで頬杖を突いて、視点の定まっていない様な、睡眠薬を飲んだばかりの睡眠障害持ち様な顔をして、大荷物を抱え売り場をうろつく発注業者の男性を見ていた。
そう言えば先日、朝食のおにぎりを買った際に、彼からお釣りを20円余分に貰ってしまったのだが、それを返しに行けば私にはどれ程の利益があるのかと考えたところ、返さなくてもよいという判断に至ったのだという事を思い出した。
思えば、大昔の私は嘘を吐いた事を正直に謝り、学校の先生から褒められるという、リンカーンだったかワシントンだったかの伝記を紐解いたらそこに出てきたような少年だったのだが、今となってはそんな事をしても自分が損をするだけという事実を痛いほど見続け、何時しか汚れた大人へと成長してしまったものだと悲しく思いもしないわけでもないが、特に気にかけるつもりもないので、その話も捨て置く事にしよう。
振り返れば目が覚めてから無意味な事ばかりを言っているような気もするが、この国は残念ながら3分に1回は強盗が起きる様なスラムなど、どこを探しても見つからない様な平和ボケを絵に描いた様な先進国家であるので、そんな国のこんな地方都市を歩く私にはそれぐらいしかささやかな退屈を潰す方法を他に思いつかないので仕方ない事だろうと思う。
ほら。そんな事を言っているうちに目的の珈琲チェーンが見えてきた。
カラン と音が鳴り私が扉を開くと、朝早くから起きているであろうにもかかわらず、先程のコンビニとはずいぶんと違った様子の店員さんが“いらっしゃいませ”と決まり文句な挨拶を述べた。
私はとりあえずブレンドコーヒーのMサイズと見た限り一番安いサンドイッチを注文し、料金を姑息にも10円玉を出せる限り出しきって払い終える。
狭いとも広いともつかない店内を見渡せば、時間が時間なだけに店は私以外の客という種類の人物は来ていないらしく、私はその中でも一番人が寄らなさそうなウィンドウから離れた角の席を選ぶと、そちらに向かってstaff onlyと表記されたドアの前を横切っ…。
ガンっ!
と鈍い音がして、私は鼻っ柱に重い衝撃を受けた。
その際私が“ゴギャン”とどこぞの画家の名前の様な悲鳴をあげてしまったことは特筆すべきではないと思いつつも、他に言うべき事が見当たらないので言っておこう。
「だ、大丈夫ですか!?」
「大丈夫じゃないですね。思っ
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