私は掃き溜めに住むカナリア、いつもこの酒場である人を待ちながら私は啼いているの。
私が啼けば男達も哭いた、私が求めたわけでもないのに。
私が待ちわびているのはそう、この饐えた世界から私を救い出してくれる強い男なのに・・・。
その男はいつもカウンターに座り背中を向けて琥珀色の液体を流し込むことに夢中の様子。
だけど私にはわかる。その男は背中を向けながらも誰よりも私の歌に酔いしれているのを・・・。
私は歌う・・・。
私の啼き声に涙をしないその背中に想いを込めて・・・。
1週間前、私は仕事明けに昔の恋人に襲われた。
「頼むから戻って来てくれ、もうお前なしではダメなんだ」
私に向ける刃とは正反対の言葉を吐き出しながら男は泣いた。
だがつぎの瞬間、事態は大きく変わった。吹き抜ける疾風と共に・・・。
そして後に残ったのは何も言わない男の背中と「覚えていやがれ」というありきたりな台詞を残し立ち去る昔の恋人・・・。
その出来事は私に男女の関係を予感させた。
「あとを・・・つけてたの?」
『偶々さ・・・。』男はお店の時と同じようにそっけない。
「嘘・・・お願い、本当のことを言って・・・。」私は食い下がる・・・。
『なに、君のソプラノが二度と聴けなくなるのは惜しいと思ったんでね・・・。』
男は去り行く背中でそう切り出した。
『また明日も最高の歌を楽しみにしているよ・・・』
たぶん、男にとってこれ以上にないくらいの賛辞を残して・・・。
私は確信した、この男なら・・・・
この男なら私をこの掃き溜めから連れ出してくれると・・・。
まさか開演前の私の楽屋に彼が来るとは思ってもいなかった・・・。
あまりにも突然の出来事に、私は注射器を持ったまま固まってしまった。
そして彼がノックもなしにドアを開けた理由は、彼の背中越しにすぐ見つかった。相変わらずの泣き顔で、無骨なその手には以前のようなナイフを握らず花束に替えて昔の恋人が頼りなさげに立っていた。
私は悟った・・・。この瞬間新しい恋人も明るい未来も消え去り、そして吹っ切れたのであろうただ何かサバサバとした思いで男の言葉を待っていた。
男は私のアンプルを手に取り『なるほど・・・フッ、エストラジオールだったか。』
思わぬ男の苦笑に私もつられて苦笑で帰した。
「だった、ってことは気づいていたの?」
『ああ、君のソプラノなんだが』
「え・・・・どういうこと?」
『その素敵なソプラノが失われるのが惜しいのは何も俺だけじゃない、この店に来る皆も一緒だ。』
『だからそいつらの為にも君のソプラノがアルプ・・・いやアルトに変わる前にその注射は欠かさず続けてくれ・・・それと』
「それと・・・?」
『その剃刀は2枚刃のようだが・・・。最近じゃ5枚刃なんてのもあるからそれに替えたほうが肌にもいいだろう。』
そう、私は最初からわかっていた。いつも背中を向けて涙を見せないあの男に私の嘘など通じないことを・・・。ただ今になってわかったのは、これから始まる今までと変わらない、いやもう私の歌を聴いて泣かない男がいなくなっただけの日常と、それでもいいと思えるようになった心の変化。
それをあの背中が教えてくれた・・・・・・。
『っべ〜俺マジやっべ〜、あれ男かよ・・・、もう信じらんねえよ・・・。』
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