「ねー、だぁりん」
帰って来るなり、スライムの嫁さんが自分を見上げて言った。
「私ね、赤ちゃんできたかも……」
俺は嫁さんの足下を見た。
スライムは栄養繁殖だ。
分裂して増える。
玄関先のポッドで育てているイチゴみいに、繁殖茎を伸ばしてその先に子ができたりもする、みたいな。
しかし今の彼女には突起とか出っぱりとか、それらしきものは無かった。
「だってね、気持ち悪いの」
つわりだった。
言った口から中身のスライムを吐き出す。
そしてそれは足元のスライムの溜まりに落ちてまた彼女に戻っていく。
リバースしたものがリバースされていく。
「やめれ……」
虹のエフェクトをかけてもダメ。
「昨晩は激しかったかな」
まるで食べ過ぎか食中りかのように言う。
スライムに正露丸は効いただろうか。いや、もっといい薬があるだろう。そもそも人の精が痛んでるか腐ってるかしていて、それに効くのだろうか……。
そこまで考えて今度は自分の体が怪しくなる。食中りだとしたら夫である自分が腐っている事になる。そこまで考えて自分の何処かおかしいのだろうか、と真剣に、そもそもの本題とは外れた所で悩み始めていた。
「だぁりんっ!」
焦れったく頬を摘まれた。
「いたい、いたたたた、こんなときだけ指先を固くするな、密度濃くして、ずるいっ、いたい、いたた、いた……て、
あ」
光が反射していた。
彼女のお腹の辺りの奥の、そこだけが隔たりがあって、周りとは違う面をもって、それはハート形で、小さくて、震えるように膨らんだり、そして縮んだりしていた。
小さな心臓がそこにあるように、脈打っていた。
「ああ」
ほんとうに……
ほんとに?
うちの嫁さんは子供を身籠っていた。
たぶん……。
でもスライムは……子供を"出産"しない。
「インキュバス……なの、かな……」
わからない。
ただ魔物の雄は、人間の男なのだ。
だから分裂して増えるスライムでも、男児であれば人間をお腹から出産する事になる筈なのだ。
筈なのだ……、はず……。
ぽてん、と。
たったそれだけの事なのに、想像がつかなくて。
ソファの上に仰向けになって大の字になった。
天井が見える。何かを考えなくてはと猛スピードで空回りしている頭の中が、天井の少し汚れた壁紙に哲学を始めようとする。
「ねぇ…、だぁりん」
「んー、なんだ?」
嫁さんの声が俺を哲学者ではなくただのサラリーマンに引き戻す。
「子供生むのって、どんな感じぃ?」
哲学者のままの方が良かったかもしれない。
「どんな感じって、なぁ……おい……」
途方に暮れる。
「俺、男だから……解んないや……」
困り果てるしか無かった。
「男は子供生まないのー?」
「生まないの」
「そー」
気の無い返事が少し寂しい。
「ねぇ、だぁりん」
「んー、なんだ?」
「子供産むときって、いたい?」
痛いのは、人間が二足歩行を支える骨盤で産道が九十度向きを変える上制限されるからだ。
でも、彼女は、その限りなのだろうか。
想像がいっこうについてくる気配がない。
「いたいのは、やだ、な……」
気の効いた言葉が浮かばない。
「俺が……ついてるよ」
「ん、だぁりん。なら、いたくても、我慢するよ」
「痛かったら、言ってくれなきゃ駄目だぞ」
「じゃあ、いたかったら、おおきな声、だすね」
「あ」と何か言いかけて「ん」と口を噤んだ。
噤んで、
噤みきれずに、言う。
「辛かったら……、無理しないで人間に似せなくても、いいぞ」
それが思いやる優しさからだと信じたかった。
だけどそれは彼女を、傷つけてしまう言葉である事も分かっていた。
「だぁりん」
返事ができない。
「わたし、人のようにだぁりん、あいしてるよー」
俯くように何かを呑み込んだ。
「しってるよー」
そっぽを向いて、嘯くようにやっと答えれた。
背中に当たった彼女が、寂しそうに漣だっていた。
本当は、答えられない自分が嫌になって、放り出しただけなのだ。優しくなんか、ない。
「ごめん……」
そう思ってそう言って、やっと俺は嫁さんを抱き締める事ができた。
彼女は抱擁を受け入れてくれた。
本当に分からなくて怖いのは、嫁さんなのに、それを俺なんかでもできる形で癒させてくれた。
「ああそうだった、君たちはそうだ。人のように、ほんとうに……変な事を言って、ごめん」
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