私メリーさん、あなたの1キロメートル後ろにいるの

「もしもし、私メリーさん。あなたの家の前に居るの」
 それはあれだ、都市伝説でよく聞いたあのフレーズだった。

 その電話の向こうにこう訊ねる。
「目玉焼きは半熟? 堅焼き?」
「半熟がいいの」
 可愛らしい返事が来る。
 あの都市伝説も、こんな声なのかね、と。
 そんな事を考えながら、フライパンの上で熱せられて油が浮いたベーコンを見やり、そこへ小気味いい音を立てて殻を割った卵を落とした。
 そして塩こしょう……、
「もしもし、私メリーさん」
 受話器の向こうからまた声がした。
「そろそろ開けてほしいの」
 コンロの火を止めてフライパンの中に目玉焼きを残して玄関に行く。
 仰々しい鋳物の鍵を回し手応えの有る重いプレスドアを開けると、しっとりと重い風が流れ込んでくる。

「……あふっ」
 欠伸が出た。
 そして欠伸は伝染する。
 その感染源たる彼女が再感染しているのだから、あれには免疫というものには無縁らしい。
「ふにぁ〜ぅ」
 電話の向こうと同じ可愛らしい声を見やると、そこには眠そうな目をした羊娘の顔があった。
 お察しの通り、これがうちのメリーさん。
 羊がメリーさんだからだろうか。でもあのメリーさんは羊ではなく、羊の飼い主がメリーさんだ。
 そしてあの都市伝説は人形のお話だけれども、うちの場合はリビングドールではなく、人形のようなゴーレムでもなく、あるいは人形に取り憑きそうなゴーストでもなくて、彼女はワーシープだった。

「……あふっ」
「ふにぁ〜ぅ」
 顔を合わせるなり軽く手を上げてまた欠伸をする。それが二人の挨拶になっていた。
 その扉の前で待っていた彼女をすり抜けた外から空気は、今は夏なのにまるで蜜を含んでいるようにふんわりとした春のように感じた。
 眠気の元締めは、ぽてぽてと玄関を上がる。
 そしてそのまま食堂の食卓の前まで行って、ちょこんと、いつもの椅子に座った。
 台所から見ると、眠そうな眼はしかし強い意志で彼女は訴えかける。
「はいはい」
 自分の朝食と、そして彼女の前にも自分と同じ朝食を並べる。
 彼女はそれを、まさに朝食らしく起き抜けて来たばかりのような眠そうな顔で、はむ、と頬張る。
 はむはむ、と確かめる。
「私メリーさん、私の目玉焼き堅焼き気味なの……」
「火加減が大事な時に急かすからだ」
 火を止めても熱いフライパンの上に置かれたままの目玉焼きは、すっかり固く焼き締まってしまっていた。
 微睡みの続きのような、とろりと溢れて舌に絡む黄身を期待していたのに。

 口の中の水分を吸われてもそもそとする彼女が、こちらの皿の方の目玉焼きを見ていた。
 そして気が付くと彼女が見ていたこちらの目玉焼きは、何故か彼女の前にあった。  
 代わりに、羊の噛み跡で黄身が半分になった目玉焼きが自分の目の前に。
 なかなかの早業、否、一瞬転寝してしまったように思える。
 隣の牧草は青かったらしい。
 でも、同じフライパンでまとめて作ったそれは多少の斑はあっても、だいたい同じ。
 結局、口の中をぼそぼそとする事になって、少し涙目な彼女のコップにミルクを注いだ。
 彼女はそれを口に付けて、口の周りにコップの輪郭で天使の輪っかを作っているのを傍目に、トースターから飛び出したパンにマーマレードを塗って皿の上に、そしてテーブルに並べる。

 タンポポ色が混じったミルク色の彼女は、マーマレードの鮮やかなオレンジが良く映えた。
 ほっぺに、マリーゴールドの花が咲いている。
 それを手で摘もうとすると、ひょいと避けられる。
 そして手を引っ込めると、それに引っ張られたように頬を寄せて来る。
 仕方なくこちらも顔を寄せた。
「キスじゃない」
 まず言い訳してから、唇の端に引っかかったそれを唇で摘んで食べた。
 甘くしかし少し苦い、そんなマーマレードの味。そして粉砂糖のようなざらりとした感触が、舌先を少しだけ乾かして、そして溶けて消えた。目を瞑った彼女の肌はまるで砂糖菓子みたいだった。
 こなっぽい肌を湿らす羊毛の薄く丹念に塗った油っぽい匂いが、鼻腔に絡んだ。香油のように溶かし込んだ空気が、鼻の粘膜からゆっくりと全身に広がって行くのを感じる。
 また欠伸が出た。大きく吸い込んだ
 額をぶつける音は、まるで自分の意識のスイッチのようだ。
 なにせテーブルで頭を撃てば痛い筈なだから。
 瞼が重くなって、自分の寝息を聞きながら意識が砂糖のように溶けていった。
 彼女の謝る声が聞こえた。
「私メリーさん、ごめんなさい、ワーシープなの」
 彼女が覆い被さってくる影のように、意識が暗転した。


 彼女と出会ったのは、一ヶ月くらい前の話だ。
 ちなみにその時その場所では、爆睡したままチャリンコに乗る男を半泣き状態で追いかけるワーシープの図、というものが
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