「いやですぅ」
郡上八幡駅に到着したレールバスは、少し長めの停車時間を強いられていた。
乗客約一名がごねて、降りてくれないのだ。
「やですぅ、離してぇ」
降車口から同乗者の彼に手を引かれて、まず可愛い手が顔を出した。そのまま腕が延びるように引っ張り出されて、幼く見える小さな肩が出た。暴れて斜めっているものだから、全体の幼さに似合わぬ大きな胸が浴衣の衿から零れ落ちそうになっていた。
前髪に目を伏せて、色々とごにょごにょ言っていた。
ぷるぷると頬を揺らして抵抗した。
更に引っ張り出そうと彼が強く手を引くと、あられも無い声を上げた。
「後生だからぁ〜」
あんあんあん……と、妙にビブラートするその艶っぽい声に、彼はぞくっとして手を離してしまった。
引っ張る力が失せたその反動で、彼女は車内へと引っ込んでしまう。
「………あ」
そして車内から「ふぇぇ…」という情けない声が聞こえた。
やがて、さっき外に出ていた部分と、そして最後まで車内に踏みとどまっていたシェトラントポニーの部分がぽかぽこと、まるで迷子のように降りて来た。
彼女はナイトメアであった。
馬の尻尾をぱたぱたと振って彼の前に来ると、額をその胸に押し当ててぐりぐりし始める。
「こんな初めての土地で手を離すなんて、狡いです酷いですぅ……」
郡上踊り、その徹夜踊りの日のそれは夕暮れであった。
「夜通し踊り明かすなんて、不健全です。不健康です」
「夜な夜な人の精を吸いに来るナイトメアの科白じゃないな、それ」
「まるで人を変質者みたいに、夜な夜なって……よなよな……」
ナイトメアはぶるっと震えた。
ぴったりと体をくっつけて、ガチガチと彼の体も揺らした。
「夜が怖いナイトメアってなぁ…」
「良いんですよ。夜には大好きな人と、夢の中でぬくぬくするんですから!」
それで、ナイトメアのくせに夜が不健全で不健康なのである。彼女にとっては、だが。
だから彼女は、さっきから渋っているのである。
「今じゃあ宵の口で終わっちゃうけど、昔は盆踊りってのは、何処も夜通し踊っていたんだってさ」
言って彼は、東の空に上って来た望月を見る。
「夜ってのは、神様が降りて来る時間らしいよ」
彼の何かを企むような口ぶりに、ナイトメアは眉を顰めて悪巧みへの警戒感を露にする。
そんな彼女に彼は、悪戯っぽく笑って言った。
「もしかしたら君、俺の女神様?」
言われてきょとんとするナイトメアを、彼はまた笑って見ていた。
「もちろん、私は貴男の女神様ですよぉ」
えっへん、とナイトメアは虚勢と胸を張って、少し低いのを気にしている鼻を高々にしてみせた。
「感謝してるよ、お前には世話になりっぱなしだから、俺は」
笑うのとは違う、何処かほっと息をつくような表情で彼は言った。
それを彼の傍らで聞いていたナイトメアは、持っていた団扇を忙しなく動かした。
彼はまた笑った。
「人は神様にいつも世話になっているから、ごちそうを用意して、陽気な囃子、おかしな歌を詠ってさ、踊り狂ってもてなして、一晩中寝ないで神様に付合うんだ。
いや、付合うなんて他人行儀だな。一緒に楽しむのかな。
それで徹夜踊り。
そして朝になったら、神様をまた送るんだとさ」
夜が明ければ、夢から覚めるように。
彼は、傍らを歩くナイトメアを抱き寄せる。
そのまま頭を腕に抱いて、首筋に顔を埋めた。
髪をくしゃくしゃと掻く。
「あなた……」
「俺の女神様」
きゅっと抱きしめられて。
ナイトメアは、彼から贈られた銀の指輪を通した指で、そんな彼の腕を握り直す。
雑踏を一瞬耳から消して、互いを確かめるようにする。
「大丈夫。私は何処にも戻らないから」
そうナイトメアが囁くと、彼の吐息するような笑みが漏れ聞こえる。
彼は笑うと、ナイトメアの手を引いた。
「さ、踊るぞ」
二人は踊る雑踏へと入っていった。
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