「めんどうくさい」
それは青天の霹靂を予感させる言葉であった。
あり得ない言葉であった。
起き抜けの寝言かと思った。
アヌビスである妻が、あの管理魔であるアヌビスが、自らの管理物である旦那に対して「めんどうくさい」と嘯くだろうか。それは匙を投げたと同義であり、敵前逃亡であり、存在否定であり、引退してどこかに引き蘢ってしまいそうな老体の本音のごときであった。
彼は美貌の妻を見た。見惚れた。見惚れる程彼女はまだ若々しく、美しい。
その黒髪も宇宙よりも深みのある漆黒で、黒曜石よりも艶やか。
褐色の肌理細やかな肌は、濡れれば黄金のようである。
肉球も、ぷにぷに。
目元涼やか、頬は林檎の如く、唇は白州に打ち寄せる波のように瑞々しい。
生気を失うどころか、彼女は結婚してから尚、旦那を管理するという糧を貪って、魅力的な女性であり続けていた。
ああ、これでもう少し胸があれば……、
……ずぎゃん。
「ぐぅわほぉぉ!」
「今何か……触れてはならぬ事を触れた様なので、管理者権限で旦那を強制停止した。業務連絡終わり」
その黄金の杖で、旦那をバルカンピンチすると、彼女は気怠気に息を吐いた。
「どうにもこうにも……もう、こんなふうに管理するのが、面倒臭くなったのだ。自信喪失というやつなのやもしれん」
「俺がお前に高望みしたばっかりに……ああ、本当はパーフェクトだよ我が妻よ。ああ、でもこれで胸さえもう少し……めきょげぇ!」
アヌビスは旦那に、キルコマンドを送信した。
「私はお前の支配権を放棄する事にした」
「つまり俺を、捨てると?」
「そう飛躍するな。私は今でもお前を愛している。お前も愛しているだろう私を? うんと頷け……良し、つまり相思相愛なのだ」
旦那にとって、釈然としない結論の導き方であったが、それは認める所である。
「ただ、あれやこれや口を出すのが、妙に面倒臭くなってな。色々と考えて管理するというのは、なかなか大変なのだ」
そう大変なのである。
それは管理を受けている彼にも、よく解る。
彼自身、それに付き合わされて、大変だからである。
彼は自分のしてきた、大変な、努力を思い浮かべる。
実は彼女の婚前の本名は、やたらと長い。
彼女個人の名前、彼女の家名、氏族名、加えてどのような血が混じって来たかを示すメモ書きの様な単語が入り乱れ、その長さと来たら、覚えているというだけで一芸として数えられるほどである。
本来であればそれは、彼との結婚を機に、彼女に関して言えばファーストネーム以外のそれらは、彼の簡素なファミリーネームによって書き換えられる筈であった。少なくとも彼の予定ではそうであった。
しかし彼女は、自らを彼の管理者と自負しているが故に、それを許さず、彼を自らの家に"編入"してしまった。
悪夢である。少なくとも彼にとっては。
しかもそれによって、彼の婚前のファミリーネームはその名前と称する単語の長蛇の列に組み込まれて、忌々しいその長さの延長に貢献すらしている。
一芸と言った所で、披露した所で途中から大量の居眠り者を発生させるだけのそれを、まるで芸を仕込まれるかのように、暗記させられた彼である。
犬の様な容姿の彼女が、何処をどう見ても人間である彼に芸を仕込む姿は、傍目に見てシュールであり、なんら責任も懲罰も免責された他人からすれば、微笑ましい光景であった。
さよなら、短いファミリーネーム。そして、こんにちわ、単語帳一冊分にも匹敵するファミリーネームらしきもの。受験でもないのに、なんでそんなもんを暗記せにゃならならんのだ。
と抗議したら、マミーの呪いが飛んで来た。
これが、旦那が、大変な、努力である。
「管理する気がないのなら、この長い名前をなんとか……」
「めんどうくさいから簡略してヨシ」
俺の努力はぁ!?
それだけ、彼女が深刻なのであろうが。
「世の中、如何に管理しようとしても、思う通りにならぬのでな」
彼女の、徒労を感じさせる眼差しが、ある一点を見つめていた。
その視線の先には、小さなバケットがあった。その中には彼女のようなイヌとかネコ科の存在が好みそうな毛糸の玉と、興味を失った事を主張するかのように、編みかけの小さな靴下が無造作に放り込まれていた。
彼女らには子供がいない。
結婚して五年が経とうとしていた。
それは彼女が望まないからではない。彼も望んでは居たが、被管理物である彼の意見は、事実の決定には埒外なのでこの際は問題ではない。
兎に角、彼女は彼を夫として迎えたその日からそれを望んで、それを主眼に五ヶ年計画を敢行し、夫との夜の営みを管理している。当初の計画通りであれば、三人の子供が今頃は、彼等の周りをぐるぐる回っている筈であった。
無意志のうちに撫でている彼
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