▼マキィヴァ其の一
マキィヴァはバニップである。
彼女は数多いるラミア種の中でも珍しい、下半身の蛇の尾が鱗の代わりに豊かな体毛となっている種族だった。
毛皮を纏うように全身を覆うもふもふとした白い体毛、それと対照的なむっちりとした黒褐色の肌、そして白黒反転した妖しげな眼は、見る者に鮮烈な印象を残すことだろう。
だが、彼女はとても臆病だった。彼女というより、バニップという種族の大半が臆病かつ恥ずかしがり屋だった。稀に姿を見せても身体の一部分、それもほんの一瞬だけ。
ゆえに彼女たちの目撃談はとても曖昧かつ誇張された表現が流布している。
たとえば「鳥のくちばしを持つ獣」、たとえば「巨大な尻尾を持つ獣」、たとえば「胴体が爬虫類の獣」などだ。
そして、バニップの中でもマキィヴァは殊更臆病な性格をしていた。
彼女は群れに属さず、辺境で一人暮らしている。孤独でいたいと願ったことはなかった。むしろ、一人きりは嫌だった。彼女にとって寂しいことは辛いことだった。
だがそれにも増して、臆病で恥ずかしがり屋で、引っ込み思案だった。輪の中で暮らすことをいつかいつかと願いながら、しかし、自分に近づく者全てから逃げていた。
そんな生活が変わるきっかけはとても些細なことだった。
旅人の会話を川辺でこっそりと聞いていたときのこと。
ジパングという海を越えた極東の島国。そこでは魔物が人の中に溶け込んで暮らすのが当たり前となっているらしい。
相方はホラ話だと一蹴していたが、マキィヴァは一蹴できなかった。
極東の島国ジパング。そこならば自分も皆の輪の中に入れるかもしれない。
変わるきっかけをようやく掴んだ孤独なバニップは、こっそりひっそりとジパング行きの船へ乗ったのだ。
だが現実は非情であった。
そもそも同族相手ですらまともに話せず群れから離れていった彼女が、ジパングに来ただけでまともな人付き合いができるようになるなど、土台無理な話だったのである。
これがバニップであるマキィヴァがジパングへやってきた経緯。おおそよ一年間、ジパングのとある湖にひっそり暮らし続けた。
そしてジパング固有種のラミアである白蛇に間違われたのが現在である。
「其方が白蛇だな。ああ、確かに噂に違わぬ見目麗しい姿だ。少し聞いていた容貌と違う気もするが些細なことだろう」
総髪の青年が真横に立っていた。
人間の突然の襲来にマキィヴァは蛇に睨まれた蛙の如く硬直する。青年の接近にまるで気づけなかったのだ。過ぎた驚きはあらゆる行動を制限してしまう。逃げることさえも。
森の中を風が吹き抜ける。自身の髪が揺れ、東方のドラゴンの刺繍が施された青年の羽織がはためいた。そこでようやく我に返ったマキィヴァは脇目も振らず逃げ出した。
草木を掻き分け、尾をくねらせ、地面を這い逃げた。そして、いま根城にしている湖の目前まで辿り着いたのだが。
「その巨体でなかなかの素早さ。恐れ入ったぞ」
「な、なな、なん」
先回りされていた。腕を組んで、満面の笑みを浮かべている。
「大事な用件があって俺は来たのだ。名も名乗らずに帰られん。俺の名は巳柱清嗣(みはしら・きよつぐ)。其方の名を教えてはくれんか、見目麗しい白蛇の巫女よ」
「ぅぅ……」
マキィヴァはその巨体を縮こまらせ、首のぶらさげていた鳥の面を被る。どうしようもなく、誰かと会話しないといけないときはこれを被っていた。それでも同じ魔物相手としか会話をしたことがない。
巳柱清嗣という名の青年。彼がマキィヴァの初めて会話する人間であった。
「ぶぅぅ……わ、わた、わたし」
「うむ」
まるで贈り物を心待ちにしている子供のように心躍る笑みを清嗣は浮かべている。
期待されている。応えねばならない。名前。自分の名前を。
「わ、わたし、わた、ぶぅぅ、し、しろ」
「しろ?」
「し、白蛇じゃな……」
ここで名乗るのではなく青年の間違いを訂正しようとしたところが、マキィヴァの対話力の無さを如実に表している。
「ふむ、白蛇という名前なのか?」
「ち、ちがっ、ば、バニップって」
「ばにっぷ? 聞き慣れない名前だ」
そして残念ながら、清嗣という青年。彼はあまり賢くはなかった。というより、あまり人の話を聞かない質だった。
「ぶぅぅぅ、ち、違う、の。違くて、ええと、ええと、わた、わたしの名前はマ、マキィヴァで」
「まきぃびゃ?」
「ま、マキィヴァ」
「まきぃば?」
「マキィヴァ……」
「うむ、とてつもなく言いにくいな!」
「!!」
諦められた。清々しいほどの笑みで。
マキィヴァは面の奥で泣きそうになる。いきなり用があると追いかけられ、白蛇と間違われ、さらには名前を言いにくいとまで言われてしまった。
怖さは消えた。害意がないのはすぐにわかったか
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