前編

―1―

 バレンタイン。
 日本においては女性が気になる男性や付き合っている相手にチョコレートをプレゼントして、親愛の情を示すというイベント。
 いわゆるそれは本命チョコだそうで、本命でない相手に渡す社交辞令的な義理チョコや、女性同士で渡し合う友チョコ、最近に至っては男が男に渡す強敵(とも)チョコなるものも存在するらしい。
 このようにチョコレート会社の涙ぐましい努力もとい謀略の成果によって色々なチョコプレゼントの形式が生まれたわけだけども、俺みたいな非モテ族にはどのチョコもとことん縁がない話だった。
 チョコレートもらったことない歴十六年で高校一年まで来た俺は、チョコレートを義理ですらもらったことがない。当然ながら母親と親族は数に入れてない。
 だから困っている。
「これは、どっちなんだろう」
 下駄箱に入った、藍紫色のリボンで丁寧にラッピングされた立方体の小箱。リボンの隙間には小さく折りたたまれた紙が挟まれている。
 今日はバレンタインデー当日、今年も今年とて変わらず何もないだろうと思いつつ、しかしもしかしたらと一種の期待感を抱いていた俺にとって、その光景は俺の思考を乱すのに充分すぎた。
 軽く十秒ほど、俺は自分の下駄箱でその箱を見つめながら固まってしまう。後ろを通り過ぎていく同級生たちが何かひそひそ話をしていたことに気づいて、俺は慌ててその箱を鞄に仕舞い込んだ。
 落ち着け、まだチョコとも、ましてや本命とも決まったわけではない。というか、置く場所を間違えた可能性すらある。期待しちゃ駄目だ。絶対何か落とし穴がある。
 そうは思いつつも、俺は口の端がにやつくのを抑えられなかった。

 で、友達がいる前で開けることなんてできるはずもなく。しかし、早くこれが何なのか知りたかった俺は、昼休みにこっそりと旧校舎の誰もいない屋上手前の階段まで行った。
 本当は本館の屋上の方へ行くつもりだったんだけど先客がいた。ちょうど告白シーンだった。
 いつもなら爆発しろと内心叫ぶ俺だけど、今日は懐にあの箱があるので幾分か嫉妬心が湧いてこない。まだ誰から誰への何の物なのか判然としていないのだけれど。
 しかしそれも今にわかる。
 手紙。さすがにこれになら差出人とその相手が書かれているはずだ。漫画的なベタな名前書き忘れなんてないだろう。
「……」
 無言のガッツポーズ。我が世の春が来たァ!!
 早速手紙の冒頭に俺の名前があった。間違いない。一言一句丁寧に、とても綺麗で女性らしさのある柔らかなタッチで俺の名前が書かれている。
「以前からあなたのことが気になっていました……か」
 ぐっと手紙の内容を俺は噛み締める。

『薬師丸瑞樹(やくしまる・みずき)さんへ。
 突然の手紙とプレゼントごめんなさい。
 ずっとずっと以前からあなたのことが頭に離れなくて、早くこの気持ちを伝えたかったのだけれどやっぱり直接渡すとなると私は恥ずかしくて何も言えなくなりそうだから、バレンタインデーのこの日にこの手紙で気持ちを伝えます。
 あなたのことが好きです。この身と心が千切れてしまいそうなほどにあなたを想い、この身をあなたに繋ぎ止めてもらえれば、この心があなたのものになればと思う程、私はあなたを求めています。
 重い女でしょうか。
 ですが、こうでしか私は想いの丈を伝える術を知りません。きっとあなたに直接言おうとすれば、この重たい口は開かなくてあなたを困らせてしまうでしょう。
 もしもあなたが少しでも私の想いに触れてくださるなら、放課後旧校舎の屋上で待っています。返事はその折にしていただければと思います。
 中学生の頃からあなたに想いを寄せていた毒島紫百合(ぶすじま・しゆり)より』

 文句のつけようもないほどのラブレター。内容はかなりヘビーを極めているが、初めての本命と告白という事実が内容の重さを些細なものにしてくれている。
 嬉しい。純粋に嬉しい。やばい、小躍りしてしまいそうだ。
「……ただ」
 ぐっと昂る感情を抑えて、手紙の最後を見る。
「毒島紫百合って誰だ?」
 俺に告白してくれたのは、俺の知らない相手からだった。
 名前からして女性であることは間違いない。毒島って珍しい名前だし憶えていると知っていたら覚えているもんだけど。

「あそこにいるのが毒島だな」
 クラスに戻って友達に毒島のことを聞いたら、同じクラスだと教えられた。あれー?
 教室の窓際、後ろから二番目の席。背筋を伸ばして座っているのが毒島らしい。
 長い髪。とてもつもなく長い艶のある黒髪で、口以外の顔が髪に隠れてしまっている。
 第一印象は暗そう。昼休みなのに誰かと話しているそぶりも見せないし、昼食を食べて時間を持て余している感じだ。バレンタイン当日特有の妙な空気感から、彼女だけ確実に断絶されている。

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