―1―
二年と半年と数か月ほど前の話をしよう。
そのときのおれはろくに体力もなく、少し走れば息を切らし、身体もいまみたいに出来上がってはいなくて、竜口山の崖なんて身長分も登れないくらいだった。
それだけじゃなくて、不愛想かつ憎たらしい性格でお世辞にも人付き合いがいいとは言えなかった。まぁこっちはいまもかもしれないけど。とにかく人見知りでなくなっているのは確かだ。
その頃くらいにもともと住んでいた雲上都市から洞窟の方へと母さんたちは引っ越した。おれが正式に二人の養子となったタイミングでだった。理由は幾つかある。おれが一度天の柱近くの崖から落ちたこともあり高い場所は危ないから、あとは街の方だとつまみ喰いに来る娘が多いからだとか。その頃はまだおれが人見知りだったせいもある。
まぁ、一番の理由は竜泉郷近くの場所に居を構えたかったからだろうけれど。ともかく、ワイバーンにとって過ごしやすい雲上都市から低地の方へと母さんと父さんは引っ越してくれた。
おれは目覚めて以来、特に何不自由なく過ごしていた。
そして、この頃には二人を母さん父さんと呼ぶくらいには信頼していた。
身寄りのないおれに生きる場所と、ここで生きてもいいんだと教えてくれた二人。魔物娘の存在自体を知りすらしないおれの存在を認めてくれた二人。信頼しないはずがない。
面と向かって口にしたことはなかったけれど、嬉しかった。心の底からおれは二人に感謝した。いまだってしている。言葉じゃ言い尽くせないくらい。
おれの身体が変調をきたしたのは引っ越ししてすぐの頃だった。
熱っぽい感覚。ふわふわと宙に浮いているような、全身が蒸気になったように地に足がつかない状態におれは陥っていた。それと同時に全身が軋むような、痛みはないけれど痺れがあった。その中でも泣かなかったのはおれの朧気な記憶に、白い病室で息も絶え絶えに苦しむ自分がいたからだろう。苦しさに慣れていたとは言わないけれど、心構えはできていたのだと思う。
正直おれはこの風邪のような状態をあまり深刻に考えていなかった。
が、母さんたちは違ったらしい。
おれが体調不良だと知るや否やドラゴニア中を東奔西走してくれた。本当の親であるかのように。多分、二人を本当の意味で親だと思うようになったのはこのときだと思う。
そして、さる高名な二人を母さんたちは探し出してくれたのだ。
いまでも少ないながらも親交のある彼女。たまたまドラゴニアに訪れていたサバトの長、バフォメットのファリアさん。
そして、闇色に一点の光を灯す白黒サキュバス。自身をリリムとかたるミクスだった。
おれを初めて見たときのミクスの顔は、その瞳はいまでも覚えている。
その瞳がおれじゃないおれを見ていた。
魔物娘を怖いと思ったことはあったがすぐに誤解は解けた。しかし、そのときばかりは人も魔物娘も関係なく、ミクス自体を怖いと思った。その絶世の美貌すら霞むほどに。
「君は、何だい?」
どこのでもなく、誰でもなく、おれが“何”なのかをミクスは尋ねていた。
おれは答えられないまま、ベッドの上でファリアさんの診察を受けていた。
ファリアさんが描く魔法陣と燐光の文字は、おれの身体の変調に関して診断をすぐさま下してくれた。
人間。それもこの世界ではなく、魔力も魔物娘も魔法も存在しない世界の人間。
朧げな記憶の世界の人間であったのだ。潜在的に魔力がゼロのせいでおれの身体は抵抗なくインキュバスというものに変質したらしい。身体の痺れは魔力による身体の変化がもたらしたもので害はなく、時間経過で治るそうだった。
「なるほどなるほど。記憶喪失か。それは大変だったね」
ミクスは実体のない風だ。霊体の風だ。容易に身体の内側へと吹き込んでくる。
温かいような、冷たいような風を伴いながら。
「いや、それとも大変じゃなかったのかな? 比較すべき記憶を持っていないんだから」
矢継ぎ早に紡ぐ彼女の言葉に、おれは乗せられていたんだと思う。誘導されていた、と言うべきか。
「朧げな記憶が比較対象かって? 君がそう思うならそうでもいいけれど本当のところ思ってないでしょ?」
「君は記憶に自身を見出していない。意味も意義も理由も価値もその記憶にはないでしょ?」
「些事だと思っているでしょ?」
軽薄な笑みに、諸手を挙げる大仰な振る舞い。
「僕たち魔物娘や人にとって記憶っていうのは道標だ。いままで歩いてきた道のりであり、これから進むべき道を示す指針でもある」
おれの横たわるベッドの周りを一歩一歩、何かの一本綱を渡るかのように両手でバランスを取りながらミクスは歩く。
「でも君はそうじゃない。君の人格形成の一助になってはいても、自己確立にはなっていない」
「じゃあ君はどこにでも行けるのかな? だだ
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