―5―
そこは無垢なるものが住まう都市フローリアン。勇者カーター・ランドの故郷であり、主神信仰の根強い都市であった。
この都市の中央教会に、一人の男の影がある。一番前の長椅子に腰掛けている男の名はニグラス。齢二十後半にしてこの教会の司祭となった、若く敬虔な信者であった。
彼は通常の礼拝以外にもこのようにして、寝る前に必ず主神に祈りを捧げていた。
今日、彼が祈るのはただ一点。今朝方、ファラオ討伐に向かったカーター・ランドが無事に帰還することだった。
カーター・ランドは誠実な人間だ。正しいこと正しくないことを分別できる人間だ。勇者の適正は十二分にあるだろう。その実力も彼に見合っている。だが、彼は優しすぎる。どんな悪人であれ、贖罪の機会を与えてしまう。
そのことがニグラスをどうしようもなく不安にさせていた。
彼が卑劣な魔物に騙されていないか。襲われていないか。無事に帰ってこれるだろうか。それに今回の任務は無茶が過ぎる。
ただでさえ、踏破が難しい砂漠越えに、罠のひしめく遺跡の攻略。そして、魔物の王たるファラオの討伐。いかに主神の加護を受けている勇者といえど、一人で遂行できる任務ではない。一個大隊を動かしてもこなせるかわからないほどの、危険な任務だ。
ニグラスはこの任務には最後まで反対していた。しかし、主神の使いたる天使は、その反対を押しきり、勇者を任務に遣わした。
今でもニグラスの目にはカーターの姿が浮かぶ。絶対に生きて帰る、と自信に満ち溢れたあの若者の顔を。
だから、ニグラスはただ祈るばかりだった。彼が無事にこの教会へと帰る日を。
そして、一週間が過ぎた。
今日も聖堂でニグラスが祈りを捧げている。カーターがここを出て一週間。順調にいっているなら、もう遺跡内部に侵入していることだろう。もしかすればファラオとも対峙しているかもしれない。
ファラオ。魔物たちの王ファラオ。
言い様のない不安が胸を締め付けるが、ニグラスはただカーターの無事を祈るばかりだった。
と、祈りを捧げているニグラスの隣に修道服を着た一人の女が座った。
「ニグラス様、また祈っているのですね」
「ああ、マイノか」
マイノ。つい二週間ほど前にこの教会へと赴任したシスターであった。
マイノは、二十歳を過ぎた程度の容姿に、長い金髪を携えている。
彼女がこの教会に訪れてから、信者の礼拝の数が増え始めたとニグラスは思っていた。
「あまり根を詰めない方がいいと思いますよ。お身体に障ります」
「ええ。ですが、私にはこれしかできませんから」
人外にも思える見目麗しい美貌に加え、他人を思いやる優しき気心。全てを包むような太陽のごとき明るさを持つ彼女に会うことを目当てとしているものが増えたからであろう。
教会の教えに従順なニグラスにとっては、少々複雑な心境ではあったが、これを機に積極的に礼拝へ訪れてくれるのであれば、構わないだろうと思ってもいた。
「お休みになられないのですか?」
「ええ、もう少し。もう少しだけ祈ります」
「……………………」
ニグラスは手を合わせ、主神に祈る。
しかし、そうしつつもニグラスは、マイノのことを横目で盗み見してしまう。
惚れ惚れするほどに美しい。流れるように透き通った金髪に、澄み渡った空のような瞳。柔和に微笑む表情。
教団の教えに敬虔に生きてきて、誰とも付き合いをしたことのないニグラスにとっては、初めての気持ちであったかもしれなかった。
胸が高鳴り、鼓動が激しくなる。祈りに集中しようとも、何故かついついマイノの方を見てしまう。
そんなことを繰り返していると、マイノと目があってしまった。
マイノは微笑みながら小首を傾げ、「どうなさいました」と訊ねる。
もちろん見惚れていたなどとニグラスが答えられるわけもない。
「い、いや、マイノは祈りを捧げないのかと思ってな。カーターが無事に帰ってこられるようにと」
誤魔化すように俯いてそう言うしかなかった。
しかし、
「ええ、しません」
気恥ずかしさに顔を俯けていたニグラスだが、マイノのこの言葉にはさすがに疑問を抱き、羞恥の炎が鎮静化する。
意外であった。慈愛に満ちた彼女が、カーターのために祈りを捧げないなど、おかしなことだと思った。
何故、と尋ねようとニグラスは顔を上げるが言葉をつぐんでしまう。
理由は簡単だった。
マイノが、慈愛に満ちた聖母の表情ではなく、淫欲に堕落した娼婦の表情をしていたからだ。
マイノは口角を吊り上げながら、ニグラスへと擦り寄る。ニグラスは突然のマイノの変貌に動けなかった。
淫乱な表情をしたマイノは、ニグラスの耳元で囁く。
甘い甘い、蕩けるような声で。
「もう祈る必要はないんですよ。だってカーター様は、ファラオ様のモノになったのだから
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