時刻は12時を少し回ったところ。
ビルの谷間から差し込む日差しは、冬にしては少し汗ばむほどだ。
#8203;
そんな俺、飯田ジョー(33歳・営業職)は、ネクタイを少し緩め、大きく息を吐いた。
午前の商談は、予想以上に難航した。だが、粘り強い交渉の末、なんとか契約までこぎつけたのだ。今の俺の身体は、達成感という名の心地よい疲労と、それ以上に強烈な「空腹」に支配されている。
#8203;(さて・・・俺の胃袋は、今、何を欲している?)
#8203;大通り沿いのチェーン店か? いや、今日の俺はもっと静かな、それでいて心を満たしてくれる何かを求めている。
雑踏を避け、ふらりと路地裏へ足を向けたその時だった。
#8203;
――フワッ。
#8203;
鼻孔をくすぐる、芳醇な香り。これは・・・コーヒーだ。それも、深煎りの豆を丁寧にハンドドリップした時にだけ立ち上る、極上のアロマ。焦げたような苦味の奥に、確かな甘みを感じさせる香り。
#8203;(ほう、こんな裏路地に喫茶店か。悪くない)
#8203;香りの糸に引かれるように、飯田はさらに奥へと進む。古びたレンガ造りの建物の角を曲がると、そこにはひっそりと、しかし確かな存在感を放つ木製の看板が掲げられていた。
#8203;『オウルメイジさんかふぇ』
#8203;フクロウの絵が描かれた看板は、隠れ家的な名店のオーラを漂わせている。なるほど、喫茶店のランチか。厚切りのトーストに、こだわりのブレンドコーヒー。あるいは昔ながらのナポリタンというのも捨てがたい。
午後の仕事までの束の間、静寂と紫煙の中でページを捲りながら、遅めの朝食兼昼食を摂る。それこそが、今の俺に相応しい「大人の休息」だ。
#8203;(決まりだ。今日はここにするか)
#8203;飯田が革靴のつま先を店に向け、ドアノブに手をかけようとした、その瞬間である。
#8203;――ベニョーン、ポロン、タラララ
#12316;ン♪
#8203;突如、頭上から謎の効果音が響いた。
どこか間の抜けた、しかし妙に耳に残る、シタールのような音色。インディアンな旋律が路地裏の空気を震わせる。
#8203;「・・・ん?」
#8203;
飯田が音が鳴る方へと顔を上げると、信じられない光景が目に飛び込んできた。重厚な木製の看板が、まるでからくり人形のように パタリ と反転したのだ。
#8203;『Curry House おうるめいじ』
文字フォントが、明朝体から一気に極太のポップ体へ。
フクロウのイラストも、学帽を被った知的な姿から、ターバンを巻き、額にビンディを付けた怪しげな姿へと変貌している。
#8203;(な、なんだ今の仕掛けは・・・!?)
#8203;驚愕する飯田を、さらなる衝撃が襲う。先ほどまでの優雅なコーヒーの香りが、一瞬にして塗り替えられたのだ。
#8203;――ドオオォォォン!!
#8203;それは、香りの爆発だった。
クミン、コリアンダー、カルダモン、クローブ。複雑怪奇に絡み合った数十種類のスパイスが、換気扇から奔流となって溢れ出し、路地裏を黄金色の熱気で満たしていく。
鼻の奥を突き抜け、脳髄を直接揺さぶるような、強烈かつ暴力的なまでの食欲への挑発。
#8203;(なんだ、この匂いは・・・!ただのカレーじゃない。胃袋を鷲掴みにされ、引きずり込まれるようだ!)
#8203;口の中に、唾液が津波のように溢れ出す。サンドイッチ? コーヒー?そんな優雅な選択肢は、スパイスの嵐に吹き飛ばされ、跡形もなく消え去った。
#8203;今の俺の身体は、猛烈に、死ぬほどに、「カレー」を求めている。この扉の向こうに待ち受けるのが、灼熱の地獄だろうと構わない。
#8203;(・・・受けて立とうじゃないか)
#8203;飯田ジョーは、もはや抗うことをやめた。導かれるように、その重い扉を押し開ける。
#8203;
カラン、コロン。
#8203;
軽やかなベルの音と共に足を踏み入れると、そこは異界だった。外の喧騒が嘘のように遮断された店内。薄暗い照明が、壁一面を埋め尽くす、カレーへの執着に満ちた本棚を照らし出している。
煮込まれた野菜の甘い湿気と、鼻腔を刺すクミンの鋭利な刺激が渦巻く空間。その発生源たるカウンターの奥に、その人物はいた。
#8203;(・・・っ!?)
#8203;
飯田は息を呑んだ。
そこに佇んでいたのは、オウルメイジ――フクロウの魔物娘だ。
だが、ただの魔物娘ではない。
まず目を奪われるのは、その圧倒的なまでの「モフモフ」だ。身体を覆う豊かな羽毛は、極上のシルクすら凌駕するであろう、見るからに柔らかそうな質感。思わず顔を埋めたく
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