大きな植木の影へと滑りこむと、俺は身をかがめ息を殺した。さすがにこれ以上は走れない。身を隠す場所があったのは幸運だった。
大雨で崩れた崖から洞窟が現れたと、近くの村から通報があったのが四日前のことだった。関所の警備兵の中から俺の所属する隊が調査を命じられ、洞窟に入ったのが一昨日のこと。中を通り抜けた先にあったのは魔物たちが住む世界だった。
俺たちは国境警備を担当する兵士だ。そこらの魔物くらいなら余裕で撃退できるくらいには鍛えている。だが、この世界は木の葉一枚から石ころ一つに至るまで魔物たちのために出来ているらしい。投げた石はあらぬ方へ飛び、突撃しようとすれば草の葉が足に絡みつき、振りかぶった剣は木の枝に引っかかる。仲間は一人また一人と魔物に捕まり、隊長ともはぐれてしまった。帰ろうにも来た時に通った洞窟は影も形も見当たらない。兜も盾も逃げる途中でどこかに落としてしまい、今はただひたすら魔物たちから逃げ回っている。
遠くからたくさんの足音が近づいてくる。大勢の駆ける音が背中の向こうを通り過ぎると、俺は大きく息をついた。
「そこに居たら捕まるよ」
少年のような声がすぐ近くから聞こえた。不意を突かれて心臓が大きく鼓動を打つ。誰かが話をしてるのかと思い、俺は身を潜めたまま動かなかったが――
「君のことだよ。木の影に座ってる君だ」
声の主は間違いなく俺に話しかけていた。観念して静かに木の影から出て立ち上がる。
ここはどうやら庭園のようだった。背の高い植木の数々が視界を遮り、さながら迷路のようである。声は植木のすぐ向こう側から聞こえてきた。回り込んでみると、そこには開けた空間が広がっていた。
木々に囲まれてほど良く日差しを遮られた庭園の一角に長いテーブルとたくさんの椅子が整然と置かれていた。その端にこちらに背を向けて燕尾服を着た一人の紳士が腰かけている。真っ白なテーブルクロスの上にはティーセットが並べられている。紳士はお茶を楽しんでいたようだった。
「こっちへ来てはどうだい」
こちらを振り返らず、紳士は自身の右隣の椅子を指さした。
「いや、俺は――」
答えようとしてすぐ口をつぐみ、俺は辺りを見回した。誰かが来る気配はない。
「魔物たちに追われてるのは知ってるよ。でもそうやって逃げていてはいずれ捕まってしまう」
「仕方ないだろう。戦おうにもこの場所はどうにも勝手がおかしいんだ」
「戦うだなんて――そもそも魔物は何のために君を追いかけるのか知っているかい?」
「人間の男を捕まえて手篭めにするんだろ。それくらい知ってる」
「正確には独り身の人間の男をだね。そこまで知っているなら話は早い。魔物たちから逃げ回るということは、自分は独り身ですって宣伝しているようなものだ。むしろ堂々としていれば意外に気づかれないものさ」
一理あるかもしれない。現にこの紳士には一人でお茶を楽しむ余裕すらある。逃げる必要が無いと分かり気持ちが落ち着くと、急にのどの渇きが気になり始めた。ここに来てから飲まず食わずで走り回っていたから当然だ。俺は紳士が指さした席に座った。
「歓迎するよ。お茶というものは一人で飲むより誰かと飲む方が美味しいからね」
紳士の方を見て俺は総毛立った。少年のような声の持ち主は男装の女性だったのだ。魔物たちの世界に人間の女性が迷い込めば、魔物に換えられてしまう。つまりこの女性は――。
「見ての通り私も魔物だ。私の一族はマッドハッターと呼ばれている」
マッドハッターは、ティーポットを手に取ろうとして俺が固まっていることに気付いた。
「驚かせてすまない。魔物が淹れたお茶を飲むのは抵抗があるかな?」
俺は黙ってうなずいた。
「では白湯にしておこう。見ての通りただのお湯だ。変なものは入っていない」
目の前に置かれたティーカップは透明な液体で満たされており、ほのかに湯気が立っていた。手に取って匂いを確かめるが言葉通り単なるお湯のようだった。一口飲んでみると、かなり熱かった。お茶を淹れるために用意されたものだから当然なのだが。
「警戒するのも無理はないか。この不思議の国は魔物の世界で、人間の住む世界とは異なるルールで成り立っている。それに君はついさっきまで魔物に追い回されていた」
マッドハッターがクッキーの並んだ皿を手に取ってこちらに見せた。が、俺は手で拒否の意思を示した。
「さらに言えば、私に君を捕らえる能力は無い。男性を羽交い絞めにするような腕力は無いし、体をしびれさせる毒も持ってない。幻覚を見せる魔力も無いし、君を追い回すような機敏さも持ち合わせていない。何よりこの服装は走り回るためのものではないしね」
燕尾服の胸元をほんの少し開けてみせながらマッドハッターがほほ笑んだ。下に着ているブラウスは豊かな膨らみによって窮屈そうに張り
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