扉を開けると、瓶詰と皿を持ったレニが立っていた。
服は着替えていて、風呂に入ったのか石鹸の匂いがしている。
「もしかして寝てた?」
どうにか人間の姿には戻れたけど、頭の角が引っ込んだ後
乱れた髪を整える余裕はボクになかった。
「ううん、ちょっと寝付けなくて」
「クリスが昼食の時間になっても食堂に降りて来ないから食欲無いのかと思ってさ、
この間実家から送ってきたリンゴのシロップ煮を持ってきたんだ」
レニはそう言って瓶を掲げた。
瓶の中には透明な液体に漬かったリンゴが詰まっている。
その色はレニの髪に似て、黄金色に透き通っていた。
「これなら少しは口に入るだろ」
「うん、ありがとう」
ボクはレニを部屋に招き入れた。
やっぱりレニは、他の生徒と比べても気がきく性格だ。
こういう男が女の子にもてるんじゃないかと思う。
でも、レニは他の生徒のように寄宿舎を抜け出して
夜の街に遊びに行く事はなかった。
田舎とはいえ酒場はいくつかあり、そこで働いている娘を
口説きに行く生徒は後を絶たない。
さすがに学生に酒を出す店はないけれど、学生の飲食自体は
どこの酒場でも黙認されていた。
ボクも友達に誘われて何度か行ったことはある。
酒場の娘たちの目にはボクが完全に子供として映るらしくて、
からかわれるだけで終わったけれど。
「二切れ食べられる?」
瓶の蓋を開けることに成功したレニが聞いた。
ベッドの脇に腰を下ろしたボクはかぶりを振って答える。
「一切れでいいよ」
魔物になってからは、人間だった頃のような空腹感を
感じることはなくなった。
おいしい物を味わいたいという欲求は変わらずにあるものの、
それだけで貴重な瓶詰を食べてしまうのは悪い気がした。
「わかった。残りは置いてくから、食欲が戻るまでは
こいつでしのぐといい」
「そんな、悪いよ」
「いいって。里帰りすればいつでも食える物だし」
そう言って、レニは微笑んだ。
シロップで煮たリンゴはとても柔らかかった。
甘みに負けない強い酸味が、体のだるさを忘れさせてくれる。
「ごちそうさま。おいしかった」
この二日間ずっと憂鬱な気分が続いていただけに、
レニのプレゼントはありがたかった。
「少し表情が明るくなったな。熱はどうだ」
ボクの額に手を当てたレニの表情が、不意に険しくなる。
「ん? クリス、おまえその瞳の色」
「どうかした?」
「前からそんなに赤かったっけ?」
レニの言葉に思わず体を震わせてしまった。
魔物の瞳。
人間の姿に戻っても、瞳の色が戻らない事には気づかなかった。
「ちょっと充血してるかも」
「白目じゃない、瞳の色だ。ちょっと見せてみろ」
あわててそむけようとしたボクの顔を、レニの両手が挟み込む。
近い。この距離は近すぎる。
レニの匂い、体温、そしてボクの瞳をじっとのぞき込む視線は
意識してはいけないと思うほど、強く意識してしまう。
鼓動が跳ね上がり、肌の上に再びむずむずとした感触が生じる。
「あ」
「その姿は――!」
レニが絶句する。
高ぶる心を静めきれず、角が、翼が、尻尾が、レニの目の前で
あらわになってしまった。
もうだめだ。魔物になってしまった事が知れ渡ってしまったら、
このまま学校にはいられない。
人間と魔物が共存している地域もあるとは聞いているけれど、
ここからははるか遠くの場所だ。
「――もしかして、魔物にやられたのか」
レニの反応は意外にも冷静だった。ボクは黙ってうなずく。
「じゃあ食事は?魔物になったということはつまり――」
レニが言い終わる前にボクは首を横に振った。
言葉にしてほしくはない。
「ずっと我慢していたのか」
「うん」
レニは騒ぎ立てるのではなく、むしろ気遣ってくれる態度だ。
そのことに安心してようやく緊張が解け、声を出せた。
そして、ボクは堰を切ったように全てを話し始めた。
サキュバスがボクの部屋に侵入したことや、体に起きた異変、
ボクの変化を見たサキュバスに魔力を抜かれたこと、
このままだとあと一日で死んでしまうこと。
話しを全部聞いたレニは、長い沈黙の後にようやく口を開いた。
「とにかく、まずは食事だ。飢え死にだけは防がないと」
「無理だよ急に」
「ここだけの話、昔飢えた魔物に精を与えたことがあるんだ」
「レニが?」
レニは黙ってうなずいた。
いきなりの衝撃の告白に、ボクの頭は真っ白になった。
自分と同じく女の子との大人の付き合いの経験が
全く無いと思ってた友人が、自分のはるか先を行ってたのだ。
いや、でもだからといって問題が解決するわけじゃない。
「レニは良くてもボクには無理だ。一昨日までは男だったのに」
沈黙が流れる。
「わかったよ」
うつむいたボクの肩にレニが手を置いた。思わず顔を上げる。
「俺のことは嫌ってくれていい。軽蔑してくれてかまわない」
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