「お前、さっさと童貞捨てろ」
築地銘太は祖父のその一言でその日一日の幸福をなにもかも破壊し尽くされた気分になった。まさか親類縁者から自分の心の弱点を、極めて的確に、しかも渾身の一撃で貫かれることになるとは思わなかった。今日、彼に幸福な点があるとすれば二つだけだろう。一つは"その日一日"がもうすぐ終わりを迎えること、もう一つはこの言葉を祖父と自分以外誰も聞いていなかったことである。
「・・・じいちゃんいきなり何を―」
「何もクソもあるか。お前はもう20に手が届こうってのに、女の手一つ握ったことが無いらしいじゃないか。人としてどうかはともかく、男としてはちったあ恥じやがれ」
傷心の築地を追撃が襲う。もはや祖父の顔をまともに見れなくなっていた。それどころか、俯く以外にどちらを向けばいいのかすら分からなかった。
実際、祖父の言うとおり築地は女の手一つ握ったことが無い。それには人見知りしがちな彼の性分もよるが、もう一つ原因があった。悪戯好きだった幼い頃の築地は些細なことから友達の女の子に泣き出され、散々に嫌われたのだ。それ以来女性というものに苦手意識を持つようになってしまっていた。
もちろん築地は男女の仲というものが存在することぐらいは知っている。その手の類は知識としては身に着けていたし、実際に付き合っている恋人同士というものもいくつか見てきた。しかし、どうしても自分が好かれると思えなかったのだった。
「まあお膳立てぐらいはしてやろう。俺の知り合いに妖怪の娘がいてな、情け無い孫の筆を下ろしてやってくれといったら、二つ返事で乗ってくれたぞ」
「なにを無茶苦茶な!相手の顔も名前も知らないのに」
「じゃあ名前を教えてやる、影山カザミという名だ。それと顔だが、心配するな。妖怪は美人しかいない」
「いや、そういう心配じゃ―」
「いいから、明日男になって来い。もう約束は取り付けたんだ。洗練された本物の技ってもんを身をもって味わいな。じゃあな、おやすみ」
祖父は一方的にそう言い渡すと、自分の部屋へ引っ込んでしまった。それは手遅れの合図だった。祖父の眠りを妨げられたものは、築地も彼の両親も含めて存在しなかった。すなわち、もう祖父が取り付けている約束とやらを取り消すことは不可能ということである。
「・・・行かないわけには・・・いかないよなぁ。じいちゃんが勝手にやったにしても向こうに迷惑だし、何よりそのじいちゃんにどやされるだろうし・・・」
築地は大きく溜め息をつくと、明日の幸福すら取り上げられた気分になりながら、自身もまた寝室へと入っていった。
「カザミ、さっさと処女卒業しなさい」
影山カザミは母親のその一言でその日一日の幸福をなにもかも破壊し尽くされた気分になった。まさか親類縁者から自分の心の弱点を、極めて的確に、しかも渾身の一撃で貫かれることになるとは思っていなかった。
「・・・えっ」
「あなたももう年頃、それも妖怪の娘。いつまでも山に篭って妖術ばかり磨いているわけにもいかないでしょう」
「そ、それは・・・」
カザミが母親から目を逸らす、これまで男性との交流を持たなかったカザミにとって、恐れていた時がついに来てしまったのだ。
「いきなりそのような事を言われても、私の知り合いには男性が・・・」
「そんなことだろうと思って私が約束を取り付けてあります」
「なッ―!」
カザミが驚きのあまり立ち上がる。
「アナタに筆を下ろしてもらうつもりらしいから、しっかり相手してあげなさいね」
「でも、私だって経験は・・・」
「だからバレないように余裕だけは保ってなさいよ?」
「そんな無茶苦茶な!相手の顔も名前も知らないのに」
「ああ、そういえば。お名前は築地銘太さん、中々に見目麗しい方のようですよ。じゃあ頑張りなさい」
母親はその事実のみを淡々と伝えると、静かに立ち上がり微笑ましげに笑いながら寝室へ入っていってしまい、後には困惑、そして焦燥する一人娘のみが残された。
彼女の母親が言う通り、影山カザミはカラス天狗の中でも優れた妖術の使い手であった。そして、それはカザミの生まれ持っての才能によるものではない。幼い頃より妖術に多大な関心を寄せていたカザミは、それを学ぶことが許される年になると、夜明け前に目を覚まし誰よりも早く彼女の師の下に行き、誰よりも多い課題や練習量をこなし、そして日が沈み師さえ疲れ果てて音を上げてからようやく家路につく、そんな生活を続けるようになった。幸いなことに、持ち前の丈夫さから体を壊すようなことはなかったものの、そのせいで色気のある話には恵まれなかった。カザミの友人達が山を下りて男達の注目を集めている間も、彼女は読心や千里眼などの技を身に付けていくばかりだった。そして、いつしかカザミは男を惑わす術に長けているものの、その背後に男の影を全く感じない
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