睦月ハジメは薄暗い森の中を歩いていた。行く当ては元より無かったが、問題なのは帰る当てすら無いことだった。日頃、仕事で家に篭りがちだからといって、散歩と称し森の中へ歩みを進めたのが彼の運の尽きであった。
少し新鮮な空気を吸ってすぐに出てくる。ただそれだけのつもりで入っただけなのに、中途半端に道らしきものが整備されていたが故に彼は奥深くまで潜り込んでしまったのだ。これを辿れば、いくらか遠くとも戻れるだろうと。そして振り返ってみれば、彼が道と認識していたものは見当たらず、そもそもそれが何であったのかさえ思い出せなかった。
仕方が無い、とにかく一直線に進めばいつかは出られるはずだ。そう心に決めて酷使していた足も、今では悲鳴を上げつつある。次第に鈍い痛みを感じ始めたところで歩みを止め、側にあった木の根元に腰を下ろした。途方に暮れた睦月は天を仰ぐ。腹が減った。今は何時頃なのだろうか。この日の傾きから見るに、正午はとうに過ぎているのだろう。それならばこの空腹も納得がいくと、睦月は意味の無い自問自答を繰り返した。
「ああ、この森はもしかしたら世界の果てまでも続いているんじゃなかろうか」
そんな突拍子のない考えが思わず睦月の口を突いて出たときだった。
カランコロン
下駄の足音のような音が響き渡った。まさか、自分以外にも人がいるのだろうか。だとすれば地獄に仏、睦月は声を張り上げた。
「おーい、助けてくれ。道に迷ってしまったんだ。そこに誰かいるんだろう」
カランコロン
先ほどと同じ音が響き渡った。しかし、音の元と思しき人影は一切見当たらない。それどころか足音さえ一度、先ほどのも含めれば二度きり聞こえたばかりである。
「頼む、助けてくれ。誰もいないのか?」
カラン
また下駄の音、今度は少し調子が違うようだった。睦月は助けを求めるどころか、だんだんと薄気味悪くなってきた。よくよく考えれば、こんな土と草の地面を下駄で歩いても音など響くわけが無い。つまり足音であるはずが無いのだ。ということは、何者かが乾いた木か何かを使って意図的に出していることになる。
一体何者なのだろうか、まさか妖怪の類ではなかろうか。そう思い始めたところで睦月はハッとした。そうだ、妖怪など今時別に珍しくもない存在らしいではないか。先日も友人が
「飼っていた猫がネコマタで驚いたよ。そいつをどうしたかって?野暮ったいこと聞くなよ」
などとニヤケ顔で話したばかりである。睦月にとってはにわかには信じがたい話であったが、後にその友人の家に呼ばれたときにそれが真実だと知った。彼の妻が睦月の目の前で猫に化けてみせたのだ。正真正銘、本物の猫。それでも睦月は手品ではないかと思い、試しに単純な計算をやらせてみたが、猫は見事に正解を導きだした。ここまでされては、もはや疑うほうがおかしいと言わざるを得ない。
しかし妖怪となれば、こんな訳の分からない出来事もすべて説明がつく。連中にもイタズラ好きな輩がいるのだろう。それもおよそ人間ではできないような術やまやかしを使った無駄に高度なものを思いつき、森に入り込んだ者に対しこれ幸いとばかりに試したに違いない。ひょっとしたら俺が迷ったのも奴の仕業ではないか。
睦月は苛立ち紛れにすべての責任を未だ見ぬ妖怪になすりつけることにした。そして、もしかしたら本当にそうなのかも知れないと心の片隅に思いながら、もはや助けを求めることなど忘れて闇雲に叫ぶ。
「おい、お前は妖怪なのか」
カラン
やはり下駄の音が返ってきた。こうまで問いかけと音のタイミングが一致しては、もはや疑う余地は無いと言っていいだろう。この森に住み着く妖怪に、睦月は化かされたのだ。
しかし妖怪にしても一体どんな奴だろう。睦月が実際に目にしたのは例のネコマタぐらいであるが、その他にも多種多様なものがいるらしい。森に住む妖怪、果たしてどんなものがいただろうか。睦月は一つだけ思い出した。
「そうか。子供の頃、祖父から森には天狗が住んでいると聞いたことがある。恐らくこれは天狗だな」
カラン
一人納得した睦月に応えるように、相も変わらず下駄の音ばかりが森に鳴り響く。
しかし睦月はここで、とある法則に気がついた。睦月の言葉によって音が変わっているように聞こえる。即ち、睦月の声に対し一度だけ鳴るときと、二度続けて鳴るときがある。睦月はふと思い立ち、しばらくの間、音に向かって会話をするかのように語りかけてみた。そして、どの場合にも音の違いは一度鳴るか二度鳴るかのみであり、これ以外のパターンは存在しなかった。
睦月はさらに考える。もしこれが自分の言葉に対するある種の返答であるならば、この二種類の音は肯定あるいは否定を表しているのではないか。となれば、一応の会話が成り立つ相手ということになる。そこまで考えて、睦月はあることを思いついた。
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