発芽

「姫様。朝食のお時間です」

 朝。
 天気は快晴、青々とした空が地平線の彼方へと伸びきっており地と空の境界がはっきりとわかるほどに清清しい天気だ。
 私は小鳥のけたたましい囀りと執事の呼び声によって目を覚ます。
 扉の向こう側では執事が朝食を用意して待機しているのだろう。
 清清しい青空のように、私自身もとても気分よくベッドから飛び起き……られればよかったのだが、どうやら今の状態ではそれは到底適わぬ問題らしい。
 というのも――

 体が鉛のように重い。
 身体が溶鉱炉のように熱い。

 ベッドから立ち上がり扉に歩み寄ろうとしても、体の自由が利かない。まるで脳と体が別々になってしまったのだろうかと錯覚してしまうほどだ。
 そのくせ全身は真っ赤に燃え滾る鉄のように凄まじいほどの熱を発しており、表皮からは私自身が干乾びてしまうのではないかと思えるほどの量の発汗を迸っていた。いや、汗というには粘り気が強すぎる"汗のようななにか"が身体から染み出ていた。
 甘く、若干の桃色を呈した粘性のもの。具体的に例えるとこうだ。

 ともかく私は気だるい体をどうにかして起き上がらせ、扉に手をかける。
 私は足を動かしていないのになぜか扉の前に立つと、そのぬめり気のある手でドアノブをひねり執事と見合わせた。

「おはようございますお姫さ……」

 目の前にはいつも通り黒スーツを着こなしている執事の姿があった。
 ……のだが、どうにもその様子はいつもとは少しばかり違っているように私には見えた。
 何かに動揺し目線が右往左往しているように見える。執事の視線は私の背後にあるナニカを捉えているようで、その瞳は不思議そうというよりかは不気味なものを目の当たりにした恐怖の色に染まっているような様子だった。
 つい執事の視線が恐ろしくなり、私も自分の背後を見回してみる……が、そこには当然ただ私の部屋の空間が広がっているだけであり特に注視すべきモノは存在していない。

「ん?……あれっ……?」

 私の眼前で執事が目を丸くし、ごしごしと自らの目を擦り、もう一度私の背後を見据える。何もあるはずがないのに何をそんなに物珍しく見ているのかが私には到底理解できなかったが、この時執事が目の当たりにしていたモノは幻なんてモノではなく、実在するおぞましきモノであったというのは後になって判ることだ。

「すみません姫様、なんでもありませんでした」
「あ〜……そうらの?はゃくご飯食べたいんだけどぉ」
「姫……さま?何だか呂律が」
「気にしない気にしなぁい。さぁ、早く一緒にご飯たべよーか」
「え、あの自分はこれから他の業務が……ってうわ!」

 私は半ば強引に執事を室内に引っ張り入れると、扉のカギを閉め執事に朝食の準備をさせた。
 ぶつくさと文句をたれながらも、しっかりと私の言うことには付き従ってくれる。それがこの執事のいいところであり好いているところでもある。
 もっとも何よりも格別に良いところはもっと別の場所にあるのだけど……ふふふふふ……
 まぁ後で美味しく堪能するからここで言わずともいずれわかることなのだが。

「しかし姫様、その服装だと風邪をひきますよ。バスローブ一枚だけだなんて。朝食の準備をしている間に着替えてきてください」
「へ?あ〜……いーの。執事だからいーの」
「……そういうことを恥かしげもなく言われるとこちらも困ります。いつもの罵詈雑言はどうしたのですか」

 そういえば。
 いつもは執事に対してひどい罵声を浴びせてきた私であったが、ここ最近は言葉に出していないような気がする。
 執事に対する罵声が私なりのジョークでありコミュニケーションであったのだが、それをしなくなったのは一体どういう風の吹き回しだ?
 コミュニケーションを取る必要がなくなった?
 いや違う。
 もっと……そうだ、別のコミュニケーションの方法があるから、私は――

「それじゃ着替えてくるからぁー覗いちゃダメだぞ。んふふ……」













(おかしい……)


 その時、執事の脳裏にある疑問がよぎった。
 違う。
 違いすぎる、と。
 いま自分が会話していた人物は本当に自分が仕える姫なのだろうか、と。
 生クリームに角砂糖をぶちこんでハチミツを塗ったくったほど胸焼けする甘いセリフを過去今まで仕えてきてて、あの姫様が発したことがあっただろうか。
 あの姫様は何か失敗することがあったら「失敗のしの字は死刑のしの字よ。次はないことね」と言い、褒めることがあったら「これぐらいできて当たり前」と言う人だ。
 そんな傲慢で高飛車で暴君気質も猛々しい姫様が「覗いちゃダメだぞ」と言った。これはどう考えてもおかしい。おかしいと思わないほうがおかしいのだ。
 部屋の奥、カーテンの向こう側で着替える姫様
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