その日、大聖堂は異様な熱気に包まれていた。
表向きの理由は「聖女の帰還」である。過酷な戦況を憂い、数週間にわたり奥の院にて沈黙の祈りを捧げていたエリスが、ついにその行を終え、民衆の前に姿を現す――教団はそう発表していた。
だが、私だけはその美談の裏にある欺瞞に満ちた真実を知っている。 沈黙の祈りなど大嘘だ。彼女は祈っていたのではない。使い潰され、声を焼かれ、ただの肉塊として廃棄される寸前だったのだから。
聖堂には救いを求める信徒と兵士たちで埋め尽くされていた。彼らの瞳にあるのは純粋な崇拝と期待だ。
咳き込む音、鎧が擦れる音、脂汗と体臭。それらが混じり合い、天井の高い聖堂内に淀んだ雲のように滞留している。
「我らの聖女様がより強い加護を持ち帰ってくださった」と信じて疑わないその無知な熱狂が、事情を知る私の苛立ちを募らせる。
私は回廊の隅、石柱の影に身を潜め、その光景を冷めた目で見下ろしていた。
最前列には、豪奢な法衣を纏った大司教たちが鎮座している。彼らの表情は硬い。期待と疑念、そして「もし使い物にならなければ今度こそ終わらせる」という冷酷な計算が見え隠れしていた。
それもそうだろう。彼らにとって今日の典礼は故障した兵器が正常に動くかどうかの「動作テスト」に他ならない。もしエリスが声を発せなければ、その瞬間に教団の威信は地に落ちる。彼らは今、信仰心ではなく、保身の恐怖に震えているのだ。
ゴーン、ゴーン、と重い鐘の音が鳴り響く。
堂内のざわめきが波が引くように静まり返った。
祭壇の奥、重厚な扉がゆっくりと開かれる。
「――聖女、入堂」
神官の声と共にエリスが姿を現した。
その瞬間、大気が――変わった。
純白の祭服に身を包んだ妹は、休養明けのやつれなど微塵も感じさせなかった。それどころか、肌は陶器のように白く滑らかで、頬には瑞々しい林檎のような朱が差している。かつては憂いを帯びていた碧眼は、ステンドグラスの光を吸い込み、濡れた宝石のように爛々と輝いていた。
美しい。誰が見ても息を呑むほどに美しい。
だが私には、その美しさが泥濘に咲く花のような、毒々しい生命力に支えられているように見えた。
エリスは祭壇の中央に進み出ると、信徒たちを見渡し、慈愛に満ちた――あるいは飢えた捕食者が獲物を見定めるような――微笑を浮かべた。
大司教たちが、祈るように両手を組み、固唾を飲んで彼女の唇を見つめている。
エリスは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
『あぁ、愛しき子らよ……』
第一声が放たれた瞬間、私の背筋に粟が立った。
喧騒としていた堂内も一瞬のうちに静まり返る。
それは、ただの美声ではなかった。まるで粘性のある液体が、鼓膜を直接撫で回したかのような感触。鼓膜を犯し、脳髄を揺さぶり、思考を書き換えてしまうかのような艶めかしさ。
以前の彼女の声は硝子細工のように繊細で、触れれば壊れてしまいそうな儚さがあった。だが、今の声は違う。湿っているのだ。朝露を含んだ苔のように、あるいは蜜を湛えた花芯のように。湿度を帯びた声の波紋が、物理的な重みを持って空間を満たしていく。
『沈黙の棺にて、我は視た。 枯れ落ちるは肉の枷。芽吹くは魂の胞。
神の庭は天空にあらず。深き、深き、碧の底。 其処より溢るる甘露こそ、真なる福音なりや……』
彼女が語りかけるたびに、堂内に満ちていた乾燥した埃っぽさが消え失せていく。代わりに鼻腔をくすぐるのはあの「森の香り」だ。腐葉土の豊かさと、熟れた果実の甘い腐臭。それが声に乗って拡散され、数千人の聴衆の肺へと浸潤していく。
咳き込んでいた老人がピタリと咳を止めた。
恐怖に震えていた兵士がうっとりと目を細め、脱力してその場に崩れ落ちた。
年端も行かない子供たちは瞳孔を開き、口をあんぐりと開け虚ろに聴き入っている。
民衆は戸惑っていた。「いつもの聖女様の声」ではないからだ。しかし、その戸惑いは瞬く間に抗いがたい快楽へと塗り替えられていく。
それは安らぎではない。強制的な鎮静。脳の奥にある恐怖を感じる部位を、甘い蜜で麻痺させられているかのような異常な静寂だった。
人を人たらしめる根源的な恐怖、不安、恐れ……それら一切合切をまるで初めから存在しない出来事であるかのように書き換え、塗りつぶし、覆い尽くす。
『祈りは平和を紡ぐ繭、神聖なる肉は欲に綻ぶ。 牧歌は滴る精となり、平穏の海へ愛を溶かす。
恐れを捨て、腐り落ちる幸福を啜れ。 此処にあるは甘き微睡、永遠の祝福』
最前列の大司教たちが安堵のため息を漏らし――そして次の瞬間、呆気にとられたように口を開けた。彼らもまた計算高い理性を剥ぎ取られ、ただの「音を聴く肉塊」へと成り下がっていたのだ。想定していた「修理」
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